反物質Ⅳ 第3章 近すぎる血

秋が深くなると、ジュネーブの光は低くなる。
2073年10月、レマン湖の水面は夏の青を失い、鉛色と銀色の間で静かに揺れていた。街路樹の葉は黄褐色に変わり、旧市街の石壁には朝の湿り気が残る。遠くの山々は雲の下に沈み、CERN後継施設へ向かう地下連絡線だけが、季節から切り離されたように白い照明を保っていた。
深山暁真と三村瑠璃は、ジュネーブ市内の小さな部屋で暮らし始めていた。
同棲という言葉を二人はまだ使わなかった。仕事の都合、研究協力、滞在費の節約。いくらでも言い訳はあった。だが、朝のテーブルに二つのカップが並び、洗面台の棚に瑠璃の小さな香水瓶が置かれ、窓際に暁真の薄膜端末が伏せられている事実は、言葉よりも早く二人の関係を決めていた。
瑠璃は、秋のジュネーブに似合っていた。深い葡萄色のニットに、柔らかな灰茶のスカート。髪は首の後ろで緩くまとめ、耳元には小さな銀の飾りだけをつけている。ヘルシンキで出会った時よりも、表情の角が少し落ちていた。
暁真はその変化を嬉しいと思い、同じだけ怖いと思った。
朝、EURYDICEから共同研究者用の通知が届いた。
EURYDICE PHASE REVIEW
エウリュディケ位相レビュー。
SUBJECT PAIR: TEMPORARY STABILIZATION CONTINUED
対象対、一時安定化継続。
GENETIC ACCESS: ETHICS LOCKED
遺伝情報アクセス、倫理ロック中。
暁真は最後の行をすぐに消した。瑠璃は見ていない。見ていないはずだった。
『今、何を消したの』
キッチンから瑠璃の声がした。彼女はコーヒーではなく、温かいベリーの茶を淹れていた。湯気が窓際の冷えた空気にほどけ、部屋を少しだけ柔らかくしている。
『施設の通知。大したことじゃない』
嘘は短いほど傷が深い。言った瞬間、暁真はそれを知った。
瑠璃は追及しなかった。追及しないことが、二人の間ではもう一つの会話になっていた。互いに隠し事がある。けれど、隠し事の上に、確かな温度の生活が積もっている。その危うさに、二人とも気づいていた。
昼過ぎ、エリカ・ロッシュから連絡が入った。場所はレマン湖岸の旧観測施設。かつてLACUSの湖底データを扱っていた建物で、今はEURYDICEの外部検証ノードが置かれている。
湖岸へ向かう自動車両の窓から、瑠璃は落ち葉の舞う道路を見ていた。暁真は隣で黙っていた。二人の肩は触れそうで触れない。ヘルシンキのトラムで偶然触れた時には、二人の中のノイズが消えた。今は触れる前から、消してはいけない何かが増えている気がした。
エリカは施設の奥ではなく、湖の見える会議室で待っていた。50代後半になった彼女は、以前より痩せて見えたが、目の強さは失われていない。濃い緑のジャケットに、白ではなく淡い砂色のブラウスを合わせている。机の上には薄膜端末が3枚、紙の資料が1冊、そして古い写真が置かれていた。
写真には、若いエリカと、幼いミラが写っていた。
暁真はその写真を見た瞬間、ニースの白い部屋を思い出した。明るい窓、消された環境ログ、ミラの声。瑠璃が彼の横顔を見た。
エリカはその視線の動きを見逃さなかった。
『ミラから聞いたわ』
部屋の空気が、一段低くなった。
『夏、ニースであなたと会ったこと。あなたたちが一夜を過ごしたこと』
瑠璃は何も言わなかった。怒りより先に、理解できないものを飲み込むような沈黙があった。
暁真は言い訳を探した。仕事で、偶然で、瑠璃とはまだ恋人ではなくて。どの言葉も口に出す前に腐っていく。エリカの目は、責めるためではなく、もっと深い場所を見ていた。
『それだけなら、私はあなたたちの問題として黙っていられた。でも黙れない理由がある』
エリカは薄膜端末を広げた。表示面に、3つの系図が現れた。深山蒼真。三村蓮。エリカ・ロッシュ。神代澪。北見真尋。そして、深山暁真、三村瑠璃、ミラ・ロッシュ。
暁真は、父の名を見た。瑠璃は、蓮の名を見た。
『三村蓮は、深山蒼真の異母兄弟だった』
エリカの声は震えていなかった。
『暁真、あなたは蒼真と澪の子。瑠璃、あなたは蓮と真尋の子。あなたたちは、ただの共同研究者でも、偶然惹かれ合った男女でもない。近すぎる血を持っている』
瑠璃の呼吸が乱れた。彼女は椅子の背を押さえたが、座らなかった。
『母は、そんなこと一度も』
『真尋は、あなたを守ろうとしたのだと思う。蓮を悪人にしたくなかった。けれど、真実を話せば、あなたの人生が最初から湖底の事件に縛られる』
『じゃあ、私は何なの』
その声は小さかった。怒鳴るよりも痛かった。
エリカは答えなかった。答えられる者などいなかった。
暁真は端末の別の欄を見た。ミラ・ロッシュ。父性判定、未確定。候補、深山蒼真。候補、三村蓮。表示は倫理ロックの奥へ沈んでいたが、意味は十分だった。
『ミラも』
『ええ。ミラも、あなたと近い血縁である可能性がある』
ニースの夏が、暁真の中で一気に遠ざかった。明るさは消えず、むしろ残酷なほど鮮明になった。知らなかった。だが、知らなかったことで、選んだ事実が消えるわけではない。
瑠璃は暁真を見た。責める目ではなかった。自分も同じ場所に落ちていることを知った目だった。
『私たち、どうすればいいの』
暁真は答えられなかった。

その夜、二人は同じ部屋へ戻った。戻るしかなかった。だが、部屋は朝とは別の場所になっていた。二つのカップ、窓際の薄膜端末、瑠璃の香水瓶。すべてが、近すぎた生活の証拠のように見えた。
瑠璃は視界レイヤーを切り、端末をテーブルに伏せた。
『今日は、何も測られたくない』
暁真は頷いた。
二人はしばらく離れて座っていた。触れれば壊れる。離れれば息ができない。その距離を、秋の夜がゆっくり冷やしていく。
やがて瑠璃が立ち上がり、暁真の前に来た。泣いてはいなかった。泣けないほど、彼女の中で何かが固まっていた。
『最後に一度だけ、普通の恋人みたいに抱きしめて』
暁真は目を閉じた。拒むべきだった。今すぐ部屋を出て、互いに別の場所へ行くべきだった。だが、腕を伸ばした瞬間、瑠璃の体は迷わずその中へ入ってきた。
彼女の髪から、温かいベリーの茶と、秋の外気の匂いがした。
暁真はソファーに深く腰掛け、手元のグラスを揺らした。視線の先には、ニースでの不貞を突きつけられ、絶望の淵に立っている恋人、瑠璃がいる。絶望は不貞だけではない。エリカからもたらされた二人の血の近さだった。
『もう、終わりにないといけない』
暁真の低い声が響く。拒絶の言葉は鋭く、しかしその裏には彼女を愛し続けてきた時間の重みが滲んでいた。
瑠璃は震える指先で、自身の衣服を一つずつ脱ぎ捨てた。布地が床に落ちるたびに、彼女の覚悟が剥き出しになっていく。全裸で彼の前に立ち、彼女は自身の肌を晒した。
『お願い。最後にもう一度だけ、普通の恋人みたいに抱きしめて』
彼女の懇願は、震える唇から漏れた。暁真の視線が彼女の全身をなめるように動く。白く滑らかな肌、二人は互いの体の一点一画を記憶に刻んでいるはずだった。
暁真は目を閉じた。拒むべきだった。今すぐ部屋を出て、互いに別の場所へ行くべきだった。だが、腕を伸ばした瞬間、瑠璃の体は迷わずその中へ入ってきた。
彼女の髪から、温かいベリーの茶と、秋の外気の匂いがした。
衣服を脱いだ暁真が立ち上がり、彼女の細い腰を掴んだ。唇が重なり、互いの唾液が混ざり合う。それは愛の確認というよりも、互いを喰らい尽くそうとする獣の接触に近い。
暁真の手が彼女の胸を強く掴み、乳輪の柔らかな質感を指先でなぞる。そこは綺麗な、やや茶色がかったピンク色をしていた。瑠璃もまた、彼の首筋に顔を埋め、狂ったように彼の肌を吸い上げた。
暁真は彼女をベッド床に押し倒した。彼は彼女の脚を割り、鼠径部へと顔を寄せた。彼はそこにある、以前から知っている小さなホクロを舌先でなぞり、執拗に確認するように舐め上げた。瑠璃は背中を反らせ、喉の奥から喘ぎを漏らす。
続いて、暁真は自身の硬く昂った男根を彼女の唇へと導いた。瑠璃は両手でそれを握りしめ、それを深く貪るように飲み込んだ。奉仕の最中、彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。それから暁真は彼女の秘部へと顔を寄せた。湿り気を帯びた陰唇の、あの独特な茶色を帯びたピンク色を舌で捉え、執拗に愛撫する。瑠璃の身体が跳ねる。彼女は暁真の頭を抱き寄せ、彼の熱を全身で受け止めた。
やがて、瑠璃は震える手で彼の男根を掴み、自身の中心へと導いた。粘膜が引き裂かれるような熱を持って、彼を内側へと迎え入れる。
『あ……っ』
暁真は彼女の腰を両手で固定し、激しく上下に突き動かし始めた。肉と肉がぶつかり合う卑猥な音が部屋に響く。瑠璃の髪は乱れ、彼女の表情は快楽と悲哀の混濁によって歪んでいた。
暁真は腰を打ち付ける速度を上げ、彼女の最奥を突き破るように突き続けた。瑠璃は彼の背中に爪を立て、逃げ場のない快楽の濁流に身を委ねた。暁真の呼吸は荒く、肺から熱い空気が吐き出される。彼は一秒でも長く、この結合を続けようとした。瑠璃もまた、彼を離したくないという執着で、内側の筋肉を強く締め付けた。
白濁した熱が噴出する。
射精の瞬間、二人の視界が白く染まった。
ただの絶頂ではなかった。暁真の背筋を駆け抜けた衝撃と、瑠璃の奥底から突き上げた震えが、時空を歪めるような強烈な共鳴を起こした。二人の血の中のあの因子がシンクロした。二人の感覚が、境界を失って溶け合う。
暁真が見る景色が、瑠璃の視点と重なり、瑠璃の感じる熱が、暁真の細胞を焼く。一瞬だけ、二人は個体であることを辞め、一つの熱源として宇宙の彼方へと溶け落ちるような感覚に陥った。
静寂が戻った。
重なり合った体から、熱い吐息だけが漏れ出していた。

翌朝、瑠璃は荷物をまとめていた。大きな荷物ではない。薄膜端末、数枚の服、母からもらった古い紙の写真。彼女は一度も暁真を責めなかった。その沈黙が、彼には何より重かった。
『しばらく、離れましょう』
瑠璃は言った。
『うん』
『嫌いになったわけじゃない』
『分かってる』
『分かってるなら、余計につらいね』
瑠璃はそう言って、少しだけ笑った。笑った瞬間に、表情が崩れそうになったが、彼女は崩さなかった。
ドアが閉まると、部屋の中にEURYDICEの通知音が遅れて鳴った。
BIO-PHASE PAIR: SEPARATION DETECTED
生体位相対、分離を検出。
STABILIZATION INDEX: RAPID DECLINE
安定化指数、急低下。
暁真は通知を消さなかった。消しても、瑠璃がいないことは消えない。
窓の外では、秋深いジュネーブの街が静かに光っていた。湖面は遠く、朝の雲を映している。明るい季節は終わった。だが、まだ冬ではなかった。

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