4月初頭、瑠璃は戻るつもりではなかった。
ミラ・ロッシュが死んだ夜から3日後、ジュネーブ中央駅の地下ホームには、春先の湿った冷気が流れ込んでいた。2074年の駅は、人間の混乱を交通システムが先に吸収するように作られていた。自動列車の扉が開き、乗客たちが静かに吐き出される。誰も急がない。誰も怒鳴らない。外では春先のジュネーブが夜へ入っていた。
三村瑠璃は、深い藍のコートの襟を立て、薄膜端末を片手にホームへ降りた。恋愛で戻ったのではない。暁真に会いたくて戻ったのでもない。そう自分に言い聞かせていた。EURYDICEの緊急要請。反物質閉じ込め場の再安定化。自分の生体相関が必要。理由は十分にあった。
十分すぎる理由は、嘘を隠す時にも役に立つ。
施設へ向かう車両の中で、瑠璃はミラの死亡報告をもう一度開いた。ガンマ線被曝。遮蔽破れ。手動隔壁作動。即時信号喪失。文章は乾いている。乾いているのに、そこに暁真の一夜が染み込んでいた。瑠璃はミラに会ったことがない。怒る相手でも、許す相手でもない。ただ、暁真が触れた女が死んだ。その事実だけが、自分の胸の中で形を変え続けていた。
暁真は第七ノードの制御室にいた。三日眠っていない顔だった。髪は乱れ、白いシャツの袖はまくったまま、薄膜端末の横に冷めたコーヒーが残っている。瑠璃が入ると、彼は顔を上げた。
『来なくてよかった』
最初の一言が、それだった。
瑠璃は足を止めなかった。
『呼んだのはあなたじゃない。EURYDICEよ』
『危険だ』
『知ってる』
『俺たちは、離れるべきだ』
『それも知ってる』
瑠璃は制御卓の前に立った。触れたくない距離を、研究施設は平気で埋めさせる。二人の生体鍵が同時に認証され、閉じ込め場の再計算が始まった。
EURYDICE STABILIZATION REQUEST
エウリュディケ安定化要求。
SUBJECT PAIR: MIYAMA AKIMASA / MIMURA RURI
対象対、深山暁真/三村瑠璃。
CONTACT DISTANCE: WITHIN 0.8 METER RECOMMENDED
推奨接近距離、0.8メートル以内。
GENETIC WARNING: ETHICS LOCK ACTIVE
遺伝警告、倫理ロック有効。
瑠璃は最後の行を見た。
『機械まで、私たちに近づけと言って、同時に近づくなと言ってる』
暁真は答えなかった。
再安定化作業は、画面上では単純だった。閉じ込め場の磁場補正、真空槽温度の調整、対消滅検出器の遅延補正。だが、実際には二人の呼吸が乱れるだけで、予測線が揺れた。暁真が近づけば、閉じ込め場のノイズは下がる。瑠璃が手を引けば、再び上がる。科学者たちはそれを生体相関と呼んだ。瑠璃には、もっと残酷な言葉に思えた。
『手を』
技術責任者が言いかけて、黙った。誰も命令できなかった。触れれば安定する。だが、その触れ合いは二人にとって、ただの操作ではない。
瑠璃が先に手を伸ばした。暁真の指は冷たかった。三日前、ミラが死んだ遮蔽室の前で、彼の中の何かが壊れたのだと分かった。瑠璃はその壊れた場所に嫉妬した。死んだ女に嫉妬する自分を、心底嫌だと思った。
閉じ込め場の和音が整った。
制御室にいた全員が息を吐いた。画面の赤い細線が黄色になり、黄色が白へ戻る。微量反物質は、再び磁場の内側に収まった。世界は救われたわけではない。ただ、数時間分の猶予を得ただけだった。
作業後、瑠璃は施設内の小さな休憩室へ入った。窓はないが、壁面照明が朝の湖畔に似せた柔らかい光を出している。2073年の施設は、人間を休ませるために自然を模倣する。だが、本物の湖の湿り気も、風の冷たさも、そこにはなかった。
暁真が遅れて入ってきた。
『ミラのこと、聞いた』
瑠璃は先に言った。
暁真は扉の前で立ち止まった。
『すまない』
『私に謝ることなのか、分からない』
『俺にも分からない』
沈黙が落ちた。怒りをぶつければ楽になれた。だが、瑠璃はミラの死を、自分の嫉妬の材料にしたくなかった。ミラは死んだ。自分は生きている。暁真も生きている。それだけで、もう不公平だった。
『近づかない方がいい』
暁真は言った。
『でも、近づかないと安定しない』
『それを理由にしたくない』
『私も』
瑠璃は視界レイヤーを切った。名前も、警告も、EURYDICEの遅延通知も消える。暁真も同じ動作をした。部屋から、最後の観測者が少しだけ遠ざかった。
二人は、互いに近づいてはいけないことを知っていた。出自も、血の距離も、倫理ロックの意味も知っていた。それでも、手の温度だけは、知識では消せなかった。
暁真が瑠璃の肩に触れた。瑠璃は逃げなかった。抱きしめられる前から、体がその形を覚えていた。ヘルシンキのトラムで、初めて触れた時に消えたノイズ。ジュネーブの部屋で、朝の茶の湯気に混じっていた沈黙。全部が戻ってきた。
『これは、安定化のためじゃない』
瑠璃が言った。
暁真は小さく頷いた。
『分かってる』
『分かってるなら、止めて』
『止められるなら、ここにいない』
ジュネーブの初春の夜は冷え込み、研究所の廊下にはひんやりとした静寂が漂っていた。しかし、窓から差し込む街灯を背に、休憩室の空気だけは異常な熱を帯びていた。
数ヶ月前、暁真の不貞という醜い事実とさらに血の近さという事実によって引き裂かれた二人は、今、互いの存在を確かめるように激しく抱き合っていた。
『離れたくない』
瑠璃の呟きは、暁真の唇によって塞がれる。重なり合う唇からは、数ヶ月分の飢餓感と、許されない愛への絶望が混じり合った唾液が溢れた。衣服の上からでも伝わる互いの鼓動。従姉という血縁、そして裏切りという罪。それを踏み越えるための情熱が、抑制を焼き切る。
暁真の大きな手が、瑠璃の肩を掴み、強引にセーターを剥ぎ取った。露わになった白い肌に、冷気が一瞬触れる。しかし、すぐに暁真の熱い掌がそれを覆った。
次いで、ブラジャーのホックが弾け、豊かな乳房が解き放たれる。
『あ、っ……』
暁真の視線が、見慣れたはずの、しかし今は狂おしいほどに愛おしい白磁のような乳房を捉えた。茶色がかったピンク色の乳首と乳輪。彼はそこに顔を埋め、貪るように舌を這わせた。
瑠璃もまた、シャツを脱いだ暁真の逞しい上半身に顔をうずめた。彼の胸に生えた薄い胸毛の感触と、研究者としての理性を剥ぎ取られた獣のような体温が、彼女の脳を麻痺させる。
暁真の手は止まらない。瑠璃のスカートを捲り上げ、下着を強引に引きずり下ろした。
二人は壁を向いて立った姿勢で密着した。
暁真は瑠璃の腰を掴み、自身の熱く屹立した男根を、彼女の秘部へと後ろから一突きで挿入した。
『ひ、あ……っ!』
瑠璃は壁に手のひらを押し付け、背筋を反らせて喘いだ。
内壁を容赦なく蹂躙する太い質量。数ヶ月の空白を埋め合わせるかのように、暁真は腰を突き入れた。
暁真は後ろから瑠璃の乳房を大きな手で包み込み、わし掴みにするように揉みしだいた。指の間から溢れ出す肉の弾力と、彼の手のひらの摩擦が、瑠璃の理性を粉砕していく。
ドクン、と脈打つような衝撃が繰り返される。
暁真は獣のようなうなりを漏らしながら、ピストン運動を加速させた。
肉と肉がぶつかり合う湿った音が、狭い部屋に反響する。
挿入されるたびに、瑠璃の体は前方に押し出され、壁との間で押し潰されるような快楽を享受した。暁真の動きは荒く、しかし正確に、彼女の最奥を突き上げる。
『もっと、もっと奥まで……っ』
瑠璃の懇願に応えるように、暁真はさらに深く、力任せに突き刺した。
何度も、何度も繰り返される激しい往復運動。
二人の呼吸は荒く乱れ、汗の雫が混じり合って床へと滴り落ちた。
摩擦によって熱を持った肉壁が、暁真の男根を締め付ける。
快楽の濁流が、二人の意識を白濁させていく。
限界はすぐそこだった。
暁真の腰の動きが、狂ったような速さで極限へと達する。
瑠璃は項を極限まで反らせ、視界を白く染めながら絶叫した。
その瞬間、二人の肉体が激しく痙攣した。
ドクン、という心音と共に、二人の脳裏に未知の感覚が奔る。体内の深い場所で、ミリア因子が共鳴し、一瞬にしてシンクロした。肉体的な快楽を超越した、魂の根源が溶け合うような強烈な衝撃。二人は同時に、これまでにない最高潮へと突き落とされた。
暁真の背筋が大きく跳ね、彼の男根から熱い精液が噴出した。
瑠璃の体もまた、内側から突き上げられるような衝撃に震え、意識が遠のく。
暁真がゆっくりと男根を引き抜くと、熱を帯びた精液が瑠璃の陰唇から溢れ出した。
それは白い糸を引きながら、彼女の白く震える太ももを伝い、ゆっくりと床へと滴り落ちていった。
静まり返った休憩室には、ただ二人の荒い呼吸と、狂おしい愛の余韻だけが残っていた。
休憩室の照明は、ゆっくりと夕方の色へ変わっていた。二人が離れた時、EURYDICEからの通知が遅れて入った。視界レイヤーを落としていても、施設の壁面表示がそれを拾った。
BIO-CORRELATION: STABILIZED
生体相関、安定。
CONTAINMENT FIELD: TEMPORARY SAFE
閉じ込め場、一時安全。
GENETIC WARNING: UNRESOLVED
遺伝警告、未解決。
瑠璃はその文字を見なかった。暁真の胸に額を寄せたまま、目を閉じていた。恋愛で戻ったのではない。そう言い聞かせてきた理由は、もう使えなかった。彼女は反物質を安定させるために戻り、同時に、自分の一番危険な場所へ戻ってしまった。
外では春先のジュネーブが夜へ入っていた。レマン湖は見えない。だが、二人の耳の奥には、閉じ込め場の低い和音がまだ残っていた。それは警告にも、祝福にも聞こえなかった。ただ、次に壊れるものが何かを、静かに待っている音だった。



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