反物質Ⅳ 第5章 γ線の白い部屋

3月末、春まだ浅いレマン湖の水面は、朝から不自然なほど明るかった。
白く磨かれた研究棟の外壁が陽を返し、湖畔の遊歩道には、冬物のコートをまだ脱ぎきれない観光客の影がゆっくり流れていた。ジュネーブの空は薄く晴れていたが、風にはまだ湖から上がる冷たさが残っている。遠くの桟橋では、無人清掃艇が小さな波を押し分け、冬の名残の枯れ枝を吸い込んでいた。その明るさの下で、閉域施設だけが別の季節を持っていた。
レマン湖岸の地下へ降りる搬入エレベーターは、音もなく下がっていく。壁は白い。床も白い。手すりだけが淡い銀色で、乗っている人間の顔色を少し冷たく見せた。ミラ・ロッシュは、薄い蜂蜜色のニットに、灰青色の細身のパンツを合わせていた。首元には母から借りた古い小さな銀のペンダントが揺れている。彼女はそれを、今朝までただの家族の品だと思っていた。
エレベーターの表示が地下6階で止まった。
ミラは胸の前で薄膜端末を抱え直した。表示面には、エリカから転送された検査記録が残っている。午前中に見せられたばかりのものだった。父性判定、保留。通常照合、未確定。深山系、三村系、双方に近い反応痕跡。文章は乾いていた。乾いているほど、そこに書かれた意味は残酷だった。
彼女は、暁真と過ごしたニースの午後を思い出した。
白いカーテン、海から入った風、日差しを含んだシーツ。あの時、二人は互いの出自を知らなかった。知らないことが、何かを免罪すると思いたかった。だが今、薄膜端末に並ぶ数値は、その甘さを許してくれない。
『ミラ、ここから先は通常見学ではないわ』
エリカ・ロッシュが言った。濃い栗色の髪を後ろで一つに束ね、生成りのジャケットに湖水色のブラウスを合わせている。顔には疲労があったが、研究者としての姿勢は崩れていなかった。
『分かってる』
『分かっていない。分かっていたら、そんな顔で入ってこない』
ミラは答えなかった。
母は午前中、全てを話した。2047年から2048年にかけてののレマン湖事件。深山蒼真。三村蓮。星の選別と呼ばれた仕組み。反物質閉じ込めログに現れた異常。自分が誰の娘か、母自身にも断定できないこと。
そして、暁真が深山蒼真と神代澪の子であること。
ミラは、その説明を聞いてから一度も泣かなかった。泣くには、事実の輪郭が硬すぎた。自分の身体が先に反応し、心が追いつかない。祖母の世代、母の世代に起きたことが、自分の肌の上に突然置かれたようだった。
『お母さんは、私を産んだことを後悔してる?』
エレベーターを降りた廊下で、ミラは初めて聞いた。
エリカはすぐに答えなかった。答えない時間が、答えより正直だった。
『後悔していることはある。でも、あなたを産んだことではない』
『なら、何を後悔しているの』
『使命という言葉で、自分の欲と恐怖を包んだこと』
ミラは母を見た。
その言葉は、午前中の説明のどの資料より痛かった。母は自分を道具として産んだのではない。だが、道具にされる仕組みの中で産んだ。その違いは小さくない。小さくないが、娘としてはどちらも傷になる。
廊下の先に、制御室が開いていた。
反物質閉じ込め槽そのものは見えない。人間の目で見る場所に、反物質は置かれない。白い制御室には横長のスクリーンが3面あり、中央には閉じ込め場の磁場分布、左には微量反水素の保持ログ、右にはEURYDICEの事象通知が流れていた。
EURYDICE EVENT NOTICE
エウリュディケ事象通知。
CONTAINMENT FIELD: STABLE
閉じ込め場、安定。
MICRO-ANNIHILATION TRIGGER: ARMED
微量対消滅トリガー、待機。
BIO-CORRELATION WATCH: THREE SUBJECTS
生体相関監視、3対象。
ミラは3対象という表示を見た。
暁真。瑠璃。そして、自分。
名前は出ていない。コードだけだった。だが、隠されているものほど、そこに自分がいることは分かる。
制御室の奥で、ジュネーブ側の主任技術者が低い声で指示を出していた。白い作業服の肩に、細い緑のラインが入っている。2074年の研究施設は、見た目だけなら病院より清潔で、危険物を扱う場所には見えない。危険は壁の向こうにあり、厚い遮蔽と遠隔操作の奥へ押し込められている。だからこそ、人は時々、そこに死があることを忘れる。
ミラは忘れなかった。
ニースで暁真の視界レイヤーが落ちた瞬間を思い出す。彼は、自分をデータではなく女として見た。自分もまた、彼を深山家の子ではなく、一人の男として受け入れた。知らなかったから、そうできた。だが、知らなかったことは、起きたことを消してはくれない。
『暁真には、もう話したの』
ミラが聞いた。
『途中まで』
『途中まで?』
『あなたと彼のことは、まだ』
母の声がほんの少しだけ揺れた。
ミラは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
『お母さん、ずるいね』
『そうね』
『否定しないんだ』
『否定できることが少なすぎる』
制御室の低い音が、そこでわずかに濁った。
画面上の線が一度だけ跳ねた。誰かが短く息を呑む。EURYDICEの表示が、安定から注意へ変わる。
CONTAINMENT FIELD: MICRO-DEVIATION
閉じ込め場、微小偏差。
TRIGGER INPUT: UNREQUESTED
トリガー入力、未要求。
REMOTE ACCESS TRACE: MASKED
遠隔アクセス痕跡、偽装。
『止めて』
エリカが言った。
主任技術者が手を上げる。『手動停止を入れます。』
だが、停止命令は通らなかった。スクリーン右上に赤ではなく、白い枠が出た。白い警告。重大事故の前段階で、視覚刺激を抑えるために作られた表示だった。赤い光で人間を焦らせる時代は終わっている。それでも、白い枠は赤より怖かった。
FACILITY MODE: PARTIAL LOCKDOWN
施設状態、部分封鎖。
SHIELDING SECTOR B: DELAYED
遮蔽区画B、遅延。
MICRO-ANNIHILATION COUNT: RISING
微量対消滅数、上昇。
ミラの耳の奥で、音が細くなった。
叫び声ではない。警報でもない。制御室の低い和音が、一つずつずれていく。反物質閉じ込め場の状態を音に変換したシステムが、崩れかけた磁場を音の濁りとして知らせていた。
『ミラ、出なさい』
エリカが腕を掴んだ。
その時、廊下側の隔壁が半分だけ降りた。全閉ではない。だが、人が通れる高さではなくなった。制御室の中にいた数人が、もう一つの非常扉へ走る。ミラも母に押されるように動いた。
非常扉の向こうは、短い連絡区画だった。そこから先に、観測用の副制御室がある。反物質そのものからは遠いが、遮蔽扉の開閉を手動で上書きできる位置にあった。
ミラは、なぜそこへ向かったのか、自分でも後から説明できないと思った。
ただ、画面に映った遅延という語が頭に残っていた。遮蔽区画B、遅延。そこが閉じなければ、γ線の一部が制御室側へ抜ける。抜ければ、母も、他の研究者も、逃げ切れない。
『ミラ、違う、そっちじゃない』
母の声が背後で割れた。
ミラは振り返らなかった。副制御室の扉に掌を当てる。生体鍵は一瞬迷った。彼女は施設職員ではない。ただし、ロッシュ家の緊急権限が母から一時的に付与されていた。午前中、エリカが娘に施設を見せるためだけに通した権限だった。
それが、扉を開けた。
副制御室は狭かった。白い壁、低い端末台、手動遮蔽の物理レバー。2074年の施設で、最後の最後に古い機械式のレバーが残されていることが、滑稽にさえ見えた。電源が落ちても、人間の腕だけで閉められるようにするためだと、母は昔説明してくれた。
ミラは薄膜端末を台に置いた。表示面が震え、彼女自身の生体反応がEURYDICEに拾われる。
BIO-CORRELATION SUBJECT R-03: PROXIMITY CRITICAL
生体相関対象R-03、危険近傍。
EXIT RECOMMENDED
退避推奨。
退避推奨。
それは命令ではなかった。AIは人を止められない。AIは推奨するだけだ。最後に動くのは人間の手だった。
ミラはレバーに手をかけた。金属は冷たくなかった。手のひらに、整備された機械の乾いた感触が返る。
その時、薄膜端末に暁真からの未読通信が出た。
AKIMASA MIYAMA
着信ではない。短い文字だけだった。
「話したい。逃げないでくれ」
ミラは、その文字を見てしまった。
見なければよかった、と思うより先に、胸の奥が折れた。ニースの光が一瞬だけ戻る。白い午後。彼が自分の名前を呼んだ声。瑠璃の存在を忘れようとする彼の弱さ。自分もまた、自分の出自を知らないまま、その弱さに触れた。
彼に会えば、何かを責めてしまう。自分を。彼を。母を。死んだ蓮を。蒼真を。星の仕組みを。反物質を。
だが今、責める時間はなかった。
ミラは端末に触れた。返信欄を開く。
「私は、知らないまま生まれて、知らないまま触れた。でも、最後だけは知って選ぶ」
そこまで打って、送信できなかった。
床が小さく鳴った。
壁の向こうで、何かが消えた。爆発音ではなかった。反物質は燃え上がらない。物質と触れた瞬間、そこにあったものを別の形へ変える。閉じ込め場の中で起きた微量対消滅の連鎖は、音ではなく、施設全体の空気の硬さとして伝わってきた。
EURYDICEの表示が一段階変わる。
GAMMA BURST RISK: IMMEDIATE
γ線バースト危険、直近。
MANUAL SHIELDING REQUIRED
手動遮蔽、必要。
ミラはレバーを引いた。
動かなかった。
古い機械の抵抗が、彼女の肩に返ってくる。力が足りない。もう一度、両手で握る。足を踏ん張る。視界の隅で、母が隔壁の隙間からこちらへ向かってくるのが見えた。
『ミラ、やめなさい!』
母が叫んだ。
その声は、研究者でも、証人でもなかった。ただの母の声だった。
ミラは初めて泣きそうになった。泣く時間はなかった。母がこちらへ来れば、母も浴びる。自分が逃げれば、制御室にいる人間が浴びる。
彼女は、誰の娘か分からないまま生きてきた。けれど、この瞬間だけは、誰かの娘だからではなく、自分の手で決めることができた。
レバーが落ちた。
鈍い衝撃とともに、遮蔽扉が降りる。厚い白い扉が、母の顔を半分ずつ隠していく。エリカはまだこちらへ手を伸ばしていた。届かない距離ではなかった。だが、ミラは一歩下がった。
『お母さん』
声は扉に吸われた。
『産んでくれて、よかった』
扉が閉じた。
次の瞬間、部屋が白くなった。
光が見えたわけではない。γ線は人間の目に白く見えない。だが、照明が一斉に落ち、非常灯が白に切り替わり、端末の表示がノイズで洗われた。だからミラの記憶では、すべてが白かった。
熱は遅れて来た。
皮膚の表面ではなく、体の奥の水分が一瞬だけ別のものに変わったような感覚。吐き気より先に、耳の奥の音がなくなる。床に膝をついたことに、彼女は少し遅れて気づいた。
薄膜端末が台から落ちた。画面は割れていない。未送信の文字がまだ残っている。
「最後だけは知って選ぶ」
ミラはそれを見た。
送信したかった。だが、指が画面へ届かなかった。体が言うことを聞かないのではない。命令が途中でほどけていく。自分の中の信号が、どこかで断線している。
彼女は、最後に暁真の顔ではなく、母の顔を思い出した。
レマン湖から上がった母が、濡れた髪を束ねながら、自分を抱き上げた日の写真。あれは作られた記憶ではない。写真で見ただけの場面を、自分の記憶のように持っていただけだ。それでもよかった。人は、写真からでも愛された記憶を作れる。
副制御室の外で、エリカが扉を叩いていた。音はもうミラには届かなかった。
EURYDICEは、最後のログを残した。
SUBJECT R-03: BIO-SIGNAL COLLAPSE
対象R-03、生体信号崩壊。
SHIELDING SECTOR B: CLOSED
遮蔽区画B、閉鎖。
CONTAINMENT FIELD: STABILIZING
閉じ込め場、安定化中。
数分後、非常班が扉を開けた時、ミラ・ロッシュは白い床に横たわっていた。
彼女の薄膜端末は、まだ小さく光っていた。未送信だったはずの文章は、事故時の自動同期でEURYDICEの隔離ログに保存されていた。
暁真がその文章を読んだのは、3時間後だった。
彼はジュネーブの別棟にいた。事故の第一報を受けた時、走ろうとして、警備ドローンに止められた。立入制限。遮蔽確認中。被曝評価未了。言葉はどれも正しい。正しすぎて、誰かを失う時の役には立たなかった。
エリカは医療区画にいた。被曝量は致死域ではなかったが、声が出なかった。喉ではない。娘の名前を呼びすぎて、言葉が体の奥で使い果たされたようだった。
暁真は、EURYDICEの隔離ログに残されたミラの未送信文を見た。
「私は、知らないまま生まれて、知らないまま触れた。でも、最後だけは知って選ぶ」
画面の下には、冷たい補足があった。
MESSAGE STATUS: UNSENT / RECOVERED FROM LOCAL CACHE
送信状態、未送信/局所キャッシュから復元。
暁真は椅子に座ったまま動けなかった。
涙は出なかった。泣けるほど、まだ現実が自分の中に入ってこない。ニースの白い午後が、事故室の白い床と重なる。ミラが残した言葉は、責めていなかった。責めていないからこそ、逃げ場がなかった。
瑠璃からの通信は、夜になって届いた。
表示名を見た瞬間、暁真は端末を伏せた。だが、伏せても通知は消えない。見なければならないことから逃げても、消えるのは画面だけだった。
彼は再び端末を開いた。
瑠璃の文は短かった。
『聞いた。そっちへ戻る必要があるなら、戻る』
愛しているから、とは書かれていなかった。
会いたいから、とも書かれていなかった。
戻る必要があるなら、戻る。
その言葉の冷静さが、かえって暁真の胸を裂いた。
ミラは死んだ。
反物質は、比喩ではなく人を殺した。
そして、世界はもう一度、暁真と瑠璃を同じ場所へ呼び戻そうとしていた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました