反物質Ⅳ 第7章 紅月会の隠し子

5月、香港の朝は、空より先に港の水面が明るくなった。
湾岸の高層住宅区では、海から上がる湿った光が窓の下を滑り、対岸の金融塔を白く浮かび上がらせていた。2074年の香港は、上へ伸びる都市だった。歩道は何層にも分かれ、無人の貨物艇が水路を横切り、投資代理端末の署名光だけが、夜明け前から動き続けている。
林暁蓉は、母の部屋の前で足を止めた。
二十五歳。紅月会の財団ネットワークでは、彼女は林月蓉の養女として登録されている。公的な出生記録は薄く、医療記録はさらに薄い。疑ったことがないわけではない。だが、疑いはいつも母の沈黙に負けた。月蓉は、隠すのがうまい女だった。隠す時ほど優しくなる。
部屋の中では、古い香の匂いがした。月蓉は窓際に立っていた。深い藤色のローブに、銀灰色の薄いショール。60代になった彼女は、若い頃の鋭さを失っていない。ただ、その鋭さが内側へ向き始めている。テーブルには、古い薄膜端末と、紙の写真が一枚置かれていた。
写真には、深山慎一が写っていた。
暁蓉は、その男の顔を知らなかった。だが、写真を見た瞬間、自分の頬の骨格がわずかに重なるのを感じた。
『誰』
『あなたの父親かもしれない人』
月蓉は言った。
言葉は静かだった。長年準備していた声だった。
暁蓉は笑わなかった。怒りもしなかった。先に来たのは、体の奥が空になる感覚だった。
『かもしれない?』
『確定はしていない。私は、確定させなかった』
月蓉は椅子に座った。指先で写真の端を押さえる。その手は震えていない。震えないことが、かえって嘘の長さを示していた。
『26年前、私は深山慎一に近づいた。紅月会のためだった。蒼真と蓮の一世代前の因子を確かめるため。若い男たちには監視が多すぎた。慎一は、古い炉心のように見えた』
『人を炉心みたいに言わないで』
『私も、そう思うようになったのは後のことよ』
月蓉の視線が窓の外へ流れた。香港の明るい朝とは別の夜を見ている顔だった。
『私は自分の体で確かめようとした。妊娠を狙ったわけではない。そう思っていた。でも、嘘ね。私はまだ自分が選別の外に捨てられていないと知りたかった』
暁蓉は、母の言葉を受け止めきれなかった。紅月会。深山慎一。古い炉心。自分の出生。すべてが、母の身体を通過して自分に届いている。自分は娘ではなく、計画の残骸なのかもしれない。
月蓉は端末を起動した。画面に、古いホテルのラウンジ、暗号化された移動履歴、医学的には曖昧な妊娠初期記録が並ぶ。そこに、深山慎一の名は直接書かれていない。だが、日時と場所は残酷なほど明確だった。
『その夜のことを、聞きたい?』
暁蓉は唇を噛んだ。
『聞かなきゃ、私は自分が誰か分からない』
月蓉は目を閉じた。
26年前の雨の夜、東京のホテル。慎一の薬指に残っていた指輪の跡。茜を失ってもなお、死者に体を預けたままの男。月蓉は彼に近づき、情報を得るつもりだった。けれど、最後に自分が欲しがったのは情報だけではなかった。

月蓉が長い記憶の話を終えて目を開けた時、暁蓉は立ったままだった。泣いていない。泣けるほど、まだ自分の人生を理解できていない。
『私は、誰の娘なの』
『私の娘よ』
『それだけでは足りない』
月蓉は答えられなかった。
『深山暁真に会いなさい』
『なぜ』
『あなたが人間として生まれたのか、紅月会の道具として作られたのか。私の言葉では、もう足りない。あの子に会えば、あなたの体が先に分かるかもしれない』
暁蓉は母を見た。母は、娘を手放す顔をしていた。守るためではない。隠し続けた罪から、ようやく娘を外へ出す顔だった。

午後、紅月会の内部端末に、林暁蓉の移動許可が出た。香港からチューリッヒ経由、ジュネーブ。名目は欧州文化遺産保全財団の監査補助。実際には、周雨棠が用意した監視付きの旅程だった。暁蓉はそれを知っていた。知った上で乗った。
空港へ向かう無人車の窓に、母のいる塔が遠ざかっていく。暁蓉の視界レイヤーには、ジュネーブの気温、宿泊先、財団用の一時鍵が流れていた。彼女はそれを全部消した。残したのは、深山暁真の公開名刺だけだった。
MIYAMA AKIMASA.
反物質安全監査官。CERN後継機構協力研究員。深山蒼真の子。
文字だけでは、何も分からない。だが、暁蓉はその名前から目を離せなかった。自分の父かもしれない男の血を、別の形で受け継いだ青年。会えば、救われるとは思っていない。むしろ、もっと壊れるかもしれない。
ジュネーブに着いたのは、夜だった。空港の自動ゲートは、彼女の生体鍵を読んだあと、わずかに処理を遅らせた。普通なら気づかない遅れ。だが暁蓉は、紅月会で育った女だった。機械が迷う時間には、必ず理由がある。
EURYDICE BORDER TRACE
エウリュディケ境界痕跡。
BIO-CORRELATION: UNREGISTERED SUBJECT
生体相関、未登録対象。
RELATED INDEX: MIYAMA AKIMASA / MIMURA RURI
関連指標、深山暁真/三村瑠璃。

表示はすぐに消えた。消えたものほど、誰かが見ている。暁蓉はゲートを抜け、初夏前のジュネーブの空気を吸った。香港より乾いていて、夜だけはまだ冷たかった。
ホテルへ向かう無人車の窓に、レマン湖の黒い水面が一瞬だけ見えた。
明日、自分は深山暁真に会う。
その名前を思っただけで、胸の奥に、母の沈黙とは別の重さが落ちた。

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