レマン湖の水面は、午後の光を受けて銀色に揺れていた。6月のジュネーブの空は高く、夏へ向かう前の青を徐々に増やしている。閉域施設へ続く地下通路の入口だけが、街の明るさから切り離されていた。
林暁蓉は、その入口の前で立ち止まった。香港からの移動で眠っていない。薄い灰白のジャケットの下には、深い緑のワンピースを着ている。母・林月蓉が選んだ服ではない。自分で選んだ。首元には、紅月会の女たちが好む金の細鎖も、家名を示す小さな徽章もなかった。
彼女の視界レイヤーには、暁真の所在が表示されていた。MIYAMA AKIMASA。深山暁真。二十五歳。神代澪と深山蒼真の子。抑制系相関、強。資料の中でその名前を見た時、暁蓉は奇妙な嫌悪を覚えた。会ったこともない男が、自分の出自を説明する最後の記号になることが不快だった。
認証ゲートの前で、彼女は掌をかざした。香港から持ち出した一時鍵は、紅月会が用意したものではない。母が最後に渡した薄膜端末の中に隠されていた。月蓉はその時、娘の目を見なかった。ただ、低い声で言った。
『ジュネーブへ行きなさい。あなたが誰の子かは、そこでしか分からない』
それが母の愛なのか、利用なのか、暁蓉にはまだ分からなかった。
扉が開くと、冷たい空気が肩に触れた。施設の内部は、2074年の研究所らしく静かだった。人型ロボットも、派手なホログラムもない。床下を走る搬送機の微かな振動、壁面に沈んだ環境センサー、遠隔遮蔽区画から返る遅延ログだけが、ここに人間の手に余るものが置かれていることを示していた。
暁真は、解析室ではなく湖側の待合スペースにいた。窓の外にレマン湖が見える。白い壁、木目の長椅子、淡い昼の光。施設の中で、そこだけがかろうじて人間の居場所だった。
『林暁蓉さん?』
彼が立ち上がった時、暁蓉は息を止めた。父の慎一に似ている、という資料上の記述は読んでいた。だが、目の前の男はそれだけではなかった。蒼真の線の細さと、澪の静けさが混じっている。自分とは違う場所で育てられた血の形が、そこに立っていた。
『私の名前を知っているなら、用件も知っているでしょう』
『あなたが来ることだけは聞いた。でも、何を話すつもりかは知らない』
暁蓉は薄膜端末を開いた。表示面が掌の上でA4ほどに広がり、暗号化された系譜図が浮かぶ。林月蓉。深山慎一。記録上の空白。紅月会の保護対象番号。人工的に整えられた資金線。彼女は一つずつ表示を消し、最後に自分の出生記録だけを残した。
『私は、林月蓉の娘です。父親は記録上、不明。だけど母は、深山慎一の可能性があると言った』
暁真はすぐには答えなかった。驚きより先に、疲れが顔に出た。ミラの死からまだ日が浅い。瑠璃とは距離を置いたまま。そこへ、さらに別の娘が自分の血の周囲に現れたのだ。
『なぜ俺に会いに来た』
『あなたに会えば、私が人間として生まれたのか、計画として作られたのか分かると思ったから』
言葉にした瞬間、暁蓉の胸の奥で何かがほどけた。紅月会の会議室では言えなかった言葉だった。母にも言えなかった。自分が欲しかったのは権力でも、反物質制御の鍵でもない。自分が誰かの娘として生まれたと、誰かに認めてほしかっただけだった。
EURYDICEの表示が、窓際の壁面に静かに浮かぶ。
EURYDICE BIO-CORRELATION NOTICE
エウリュディケ生体相関通知。
SUBJECT: LIN XIAORONG
対象、林暁蓉。
MILIA-DERIVED FRAGMENT: DETECTED
ミリア由来断片、検出。
ACTIVE RESPONSE: WEAK / UNSTABLE
活性反応、微弱/不安定。
暁蓉は画面を見た。弱い。不安定。母が最も嫌った言葉だった。選ばれた女にも、選ばれなかった女にもなれない。反応はあるのに、使えない。紅月会が彼女を失敗作として扱った理由が、そこに淡々と出ていた。
暁真は表示を消した。
『こんな言葉で人を決めるな』
その短い言葉に、暁蓉は意外なほど動かされた。自分を慰めるための言葉ではない。暁真自身が、同じ言葉に傷つけられてきたから出た声だった。
暁蓉は母から預かったデータを渡した。香港の匿名財団、マカオを経由した医療企業、ロシア残党の量子通信中継網、ジュネーブの閉域施設へ侵入するための支払い記録。すべてが一本の線につながっていた。
『彼らの目的は反物質爆弾じゃない。微量対消滅トリガーを、人間の生体相関で安定させること。ミラは候補だった。私は失敗した候補。そして、本命はたぶん、あなたと三村瑠璃の組み合わせ』
瑠璃の名が出た瞬間、暁真の目が変わった。暁蓉はそこに答えを見た。彼は瑠璃を愛している。隠しても無駄だった。反応値ではなく、顔に出ていた。
『その先は?』
『あなたたちの子』
暁真は椅子の背に手を置いた。指に力が入る。暁蓉は続けた。
『私が聞いたのはそこまで。母は、私を逃がすために言ったのか、最後まで利用するために言ったのか、分からない。でも、紅月会はまだ待っている。まだ生まれていないものを』
夕方、暁蓉は施設を出た。暁真は警備を付けようとしたが、彼女は断った。自分が逃げ込めば、母が何をされるか分からない。彼女はホテルへ戻る車に乗り、湖から離れていく街の光を見ていた。
自動運転車両は、交差点の手前で速度を落とした。視界レイヤーに経路変更の表示が出る。暁蓉はすぐに異常を察した。香港で育った女は、無音の攻撃を知っている。
ドアロックが解除不能になった。
彼女は薄膜端末を開き、暁真へ短い音声を送った。
『私は、失敗作でよかった。成功していたら、きっと誰かを殺していた』
送信が完了する前に、車体が左へ流れた。衝撃は一度では終わらなかった。安全装置は作動した。だから事故としては不自然ではなかった。人が死ぬには十分で、人が疑うには少し足りない。紅月会らしい死だった。
夜、暁真は病院の白い廊下で、暁蓉の死亡確認を聞いた。ミラに続いて、また一人の娘が消えた。自分と関わったからではない。彼女たちは最初から狙われていた。それでも暁真には、自分のそばへ来た者だけが死んでいくように思えた。
湖の方角から、遠い風が来た。暖房の効いた廊下で、暁真はしばらく動けなかった。
反物質Ⅳ 第8章 存在証明
反物質Ⅳ

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