サンクトペテルブルクの夜は、雨の匂いを含んだまま沈んでいた。ネヴァ川の水面は黒く、岸壁に並ぶ灯りだけを細く伸ばしている。川沿いの旧研究棟は、外から見れば19世紀の石造建築にすぎなかったが、地下3階から下は、軍の地図にも載らない閉域施設へと姿を変えていた。
三村蓮は、白い廊下の突き当たりで立ち止まった。隔壁の向こうから、冷却装置の低い振動が床を伝ってくる。ここへ来てから、その音はずっと心臓の裏側に張りついていた。どこかで聞いたことがある。湖底の泥の中で、何千年も鳴り続けていたような音だった。
北見真尋は、蓮の半歩後ろで入館証を握り直した。首から下げたゲストカードにはロシア語でГОСТЬと印字されている。施設の職員たちはそれを見て、彼女を人間ではなく、通過を許された記号のように扱った。
『蓮、無理しないで。顔色、悪い』
『ここまで来て帰れると思うか』
『帰るために来たんじゃないの?』
蓮は答えなかった。真尋の問いは、蓮自身がいちばん遠ざけていたものだった。力を得るために来たのか。力から逃げるために来たのか。その境目は、バイカル湖の測定記録を見た夜から曖昧になっていた。
認証音が鳴り、重い扉が開いた。先に立っていたセルゲイ・モロゾフが振り向く。彼の胸には、ゲストカードではなく施設職員用の正式なIDカードが下がっていた。肩書は主任解析官。だが、その表情は研究者というより、結果を先に知っている監視者のものだった。
『ここから先は私語を控えろ。記録に残る』
『じゃあ、記録に残したいことだけ話せばいい』
蓮が皮肉を返すと、セルゲイは薄く笑った。
『その性格も、データには出ている』
中央室には、半透明のスクリーンが天井から何枚も吊られていた。バイカル湖、レマン湖、男鹿のマール。3つの水域の地形モデルが、重なりながら回転している。水深、温度、塩分濃度、微弱な電磁ノイズ。どれも普通の湖ならば背景雑音として処理されるはずの数字だった。だが、後から照合すると2047年春以降、3つの湖は同じ17分周期の揺らぎが残り始めていた。
『ORPHEUSが拾った周期と、こちらのSOVA-9の検出が一致した。偶然じゃない』
セルゲイはスクリーンに手を伸ばし、波形を拡大した。
『一致率は?』
『生データでは82.4%。ノイズ除去後は96.1%。ただし、除去条件をいじればいくらでも上がる。だから俺は、上げた数字より、下がらない数字を見ている』
真尋は思わず口を挟んだ。
『下がらない?』
『3つの湖の位相差だ。モデルを変えても、17分周期のずれが一定範囲から出ない。水温でも潮汐でも説明しきれない』
蓮の胸の奥で、小さく何かが跳ねた。スクリーンの波形が、心拍のように見えたからではない。自分の体内にある何かが、その波形に遅れて返事をしたからだった。
その瞬間、中央室の奥の扉が開いた。
イリーナ・モロゾワは、音もなく入ってきた。濃紺のスーツに、灰色の細いスカーフ。柔らかい金髪を首の後ろでまとめ、化粧は控えめだった。だが、視線だけは冷えていた。相手が研究者であれ軍人であれ、彼女は同じ速度で観察し、同じ速度で切り捨てる女に見えた。
『紹介は要らないわね。三村蓮。北見真尋。あなたたちのデータはもう見た』
『人を会う前に読む趣味か』
『趣味じゃない。仕事よ』
イリーナは蓮の前で立ち止まり、スクリーンを見た。
『あなたの反応は、増幅反応に近い。ただし完全ではない。怒り、恐怖、喪失感、そのどれかが強まると、波形が一瞬だけ跳ねる。安定しないのが問題ね』
AMPLIFICATION RESPONSE: INDUCIBLE
増幅反応、誘導可能。
STABILIZATION FACTOR: MAHIRO KITAMI
安定化因子、北見真尋。
MILITARY UTILIZATION RISK: HIGH
軍事利用リスク、高。
『問題? 俺を兵器みたいに言うな』
『兵器とは言っていない。まだ』
真尋の指が、ゲストカードの縁を強く押しつぶした。
『まだ、って何』
イリーナは真尋へ視線を移した。そこには敵意も同情もなかった。
『使えるかどうかを判断する前に、名前を付けない主義なの』
中央室の照明が一段落ちた。スクリーンの1枚に、別室の映像が映る。そこには薄いピンク色の高級なサテン調シャツを着た若い中国人女性が映っていた。肩までの黒髪は手入れが行き届き、首元には小さな金のネックレスが光っている。派手なメイクのせいで年齢より大胆に見えたが、表情は感情を売り物にしない者の落ち着きを保っていた。
『陳美蘭。29歳。表向きは香港系投資ファンドの顧問。実際は、極東と欧州をつなぐ非公式な仲介者よ』
セルゲイが補足した。
『林麗華と林月華の系譜に近い。血縁とは限らないが、資金と連絡網を継いでいる』
蓮は画面の女を見た。陳美蘭はカメラ越しに、こちらを見ているようだった。
『こんな連中まで呼んで、何を売るつもりだ』
『売るかどうかは、まだ決めていない』
イリーナの声は静かだった。
『けれど世界には、結果が出る前に値段を付ける人間がいる。美蘭はその値段を知っている』
別室の音声がつながった。陳美蘭は日本語で話した。少し硬いが、意味の取り違えを許さない日本語だった。
『三村さん、あなたは自分が利用されることを嫌っている。でも、利用されない力は存在しない。あるのは、誰に利用されるかを選ぶ権利だけ』
『選ぶ権利を買いに来たのか』
『いいえ。あなたがまだ選べる人かどうかを見に来た』
蓮は笑った。笑い声は喉の奥で乾き、すぐに消えた。
『俺を見世物にするなら、もっと高い席を用意しろ』
『席は用意してある。問題は、あなたが座れるかどうか』
真尋が蓮の腕に触れた。小さな接触だったが、蓮の体内の揺らぎがわずかに落ち着いた。スクリーンの波形も、それに合わせるように平坦になった。
セルゲイが眉を動かした。
『今のを記録しろ。接触による減衰。真尋さん、もう一度同じ距離で』
『嫌です』
真尋の声は震えなかった。
『私は装置じゃありません。蓮も』
イリーナは、初めて真尋に興味を持ったように目を細めた。
『装置ではない。だから厄介なのよ。装置なら壊れても替えが利く。人間は、壊れ方が予測しにくい』
『予測できないから、人間なんでしょう』
真尋がそう言った瞬間、蓮の胸の奥で再び何かが跳ねた。今度は痛みではなかった。真尋の言葉が、まだ自分を人間の側に引き留めている。その事実が、ひどく邪魔で、ひどくありがたかった。
イリーナはセルゲイへ短く合図した。別のスクリーンに、バイカル湖の湖底地形が映る。黒い泥の下に、不自然に直線的な反射面があった。人工物、と断言するには早い。だが、自然物と言い張るには形が整いすぎていた。
『これは、ただの遺物じゃない。反応系よ。レマン湖のものが抑制方向に働くなら、バイカル湖のこれは増幅方向に近い。男鹿は、その中間に見える』
『近い、見える、ばかりだな』
『科学は断言する前に疑う。政治は疑う前に使う。私はその間にいる』
イリーナは蓮の前に、薄いガラス板のような端末を差し出した。画面には、蓮自身の生体データが並んでいる。心拍、体温、脳波、血中の微量元素反応。そして、通常の医学指標には存在しない相関値が、赤く点滅していた。
『あなたに必要なのは、恐怖ではなく焦点よ。怒りでもいい。喪失でもいい。あなたが何かを失った瞬間、増幅反応ははっきり立ち上がる』
『そんなもの、欲しくて持ってるわけじゃない』
『知っている。でも、欲しくないものほど、他人は欲しがる』
陳美蘭が、画面の向こうで小さく笑った。
『三村さん、あなたが拒むほど価値は上がる。市場はそういうものです』
蓮は画面から目を逸らした。そこで初めて、真尋の顔が青ざめていることに気づいた。真尋は蓮を見ていなかった。スクリーンに映る相関値を見ていた。赤い数字が、彼女の呼吸に合わせて揺れているように見えた。
『真尋』
『大丈夫』
『嘘つくな』
『嘘じゃない。まだ、大丈夫って意味』
蓮はその言葉に返せなかった。まだ、という一語が、ここにいる全員の時間を区切っていた。まだ壊れていない。まだ戻れる。まだ選べる。だが、まだ、は永遠ではない。
イリーナは静かに端末を閉じた。
『第1段階は終わり。三村蓮の反応は、意図的な誘導で増幅可能。ただし安定化には北見真尋の生体相関が影響する。ここまでは報告できる』
『どこへ報告する』
『知りたい?』
『知っても止められない相手か』
『止める気があるなら、まず自分を止めなさい』
イリーナは背を向けた。彼女の歩き方には迷いがなかった。自分が罪を犯していることを知らない者の歩き方ではない。罪を数えたうえで、それでも必要だと決めた者の歩き方だった。
中央室を出る直前、彼女は陳美蘭へロシア語で短く告げた。
『明朝ジュネーヴへ送る。その前に三村蓮へ接触させる。ウィーンにも影を置いて』
陳美蘭は、画面の向こうで金のネックレスに指を添えた。
『承知しました。先に三村蓮、その後で深山蒼真の側ですね』
蓮はその名に反応した。ほんの一瞬だったが、波形は鋭く跳ね上がった。
イリーナは振り向かなかった。
『今のも記録して』
セルゲイの手がキーボードの上を走る。真尋は蓮の腕を掴んだ。蓮は自分の中で生まれた暗い熱を押し殺そうとしたが、それは水の底から浮かぶ泡のように、次々と胸の奥へ上がってきた。
深山蒼真。
名前だけで、これほど反応する自分がいる。怒りなのか、羨望なのか、同じ根から分かれたものへの拒絶なのか、蓮には分からなかった。
ただ、分からないものほど利用される。
そのことだけは、イリーナの背中が教えていた。



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