小さくノックをした後、真尋は蓮の部屋に静かに入りドアを閉めた。
壁際のカーテンが、外からではなく室内から吹く冷気でわずかに揺れている。6月のサンクトペテルブルクは、まだ夜になりきっていなかった。ネフスキー大通りの向こうに白夜の薄明が残り、雨を含んだ舗道と石造りの壁を淡く浮かべている。外は初夏の湿り気を持っていた。だが研究協力者用ゲストアパートメントの一室だけが、季節から切り離されたように冷えていた。
冷房が強すぎる。そう思ったのは一瞬だった。次に目に入ったのは、窓際の椅子に座る蓮の指先だった。膝の上に置かれた手が、握られることも、開かれることもなく、白く固まっている。風を受けても肩が動かない。冷えているのは部屋だけではなかった。
同じ建物の別室から持ってきた買い物袋が、手の中で小さく鳴った。紅茶の缶と、黒すぐりのジャムの瓶が触れ合う音だった。昼間、グリボエードフ運河に近い小さな店で選んだ。店の女性は、砂糖ではなくジャムを添える飲み方を、短い英語と身ぶりで教えてくれた。紅茶に少し落としてもいい。スプーンで先に舐め、熱い紅茶を追わせてもいい。甘さを溶かす順番は、自分で選べるのだと、真尋はその時だけ少し笑った。
今は、その記憶を楽しむ余裕はなかった。
キッチンの小さな灯りを点け、真尋は湯を沸かした。声をかければ、蓮の内側へ無理に踏み込む。放っておけば、彼はそのまま自分を遠い場所へ押し込んでしまう。ティーポットに茶葉を入れ、熱湯を注ぐ。瓶のふたを開けると、黒すぐりの酸味を含んだ甘い匂いが、冷房の乾いた空気にゆっくり広がった。
蓮は、端末の画面を閉じていなかった。
検査後の確認用として渡された研究管理端末だった。表向きには、当日のバイタルと神経反応の簡易レポートだけを見せるはずのものだ。けれど、画面の下段には管理者側の処置ログが残っていた。ロシア語と英語が混じる細かな行。採血。神経反応。増幅因子。保存コード。そこまでは、蓮も見慣れてしまった言葉だった。
違っていたのは、その下だった。
REPRODUCTIVE SAMPLE / MIMURA-REN。
OPERATOR: D. Belyaeva。
STORAGE: SPB-BIO VAULT 04 / SLOT R-17。
CONSENT: NOT SIGNED。
さらに一行、別の予約欄に、ERIKA-ROCHE / RECHECK PENDINGという文字が残っていた。蓮の視線はそこまで届いていない。彼は、自分の名の横に置かれたREPRODUCTIVE SAMPLEから動けなくなっていた。
真尋は画面を長く見なかった。見れば怒りが先に出る。怒りは必要だった。だが今、蓮の前にそれを置けば、蓮は自分をさらに汚れたものとして扱う。誰かを責める声より先に、彼の身体を、彼自身のもとへ戻さなければならなかった。
カップを二つ並べた。片方の紅茶に、ジャムをほんの少し落とす。熱の中で果肉がほどけ、赤紫の筋がゆっくり沈んだ。もう片方には、小皿にジャムを添えた。蓮が選べるようにする。飲み方さえ、誰かに決められたものではないと、手元だけで伝えたかった。
真尋はカップを蓮のそばに置いた。湯気が、冷えた指の近くでほどけた。
『冷房が効きすぎてる。紅茶、熱いうちに』
それだけにした。
蓮の指が遅れて動いた。取っ手に触れ、すぐには持ち上げない。陶器の熱を確かめるように止まる。人間の身体は、こういう単純な温度にはまだ応える。蓮はそのことに戸惑っているようだった。
端末の光が、テーブルの端で青白く残っている。数字と記号の列は、蓮の名前よりも強く彼を管理していた。三村蓮ではなく、MIMURA-REN。男ではなく、増幅反応を示す個体。愛する相手を選ぶ人間ではなく、誰かが将来の兵器や継承のために確保したい生殖細胞の持ち主。
蓮の喉が動いた。紅茶ではなく、言葉にならないものを飲み込んだように見えた。
彼は血を疑ったことがある。異母兄弟の蒼真との関係。男鹿に残る過去。バイカル湖で自分だけが示す反応。だが血を疑うことと、身体の奥を勝手に持ち出されることは違う。そこには、研究協力という言葉では覆えない屈辱があった。怒りにすらならない空白があった。
真尋は蓮の隣に腰を下ろした。肩が触れるほど近く、抱きしめるにはまだ遠い距離だった。彼の身体を勝手に扱った者たちと同じ側に立ちたくなかった。触れてよいかどうかを、言葉で急かさない。蓮の呼吸が戻るまで待つ。指が逃げないかを見る。目を伏せる時間を奪わない。
蓮は紅茶を口に運んだ。熱さに目を細める。黒すぐりの酸味が舌に残ったのか、口元がわずかに歪んだ。泣きそうな顔ではない。苦い顔でもない。忘れていた身体の感覚が戻ってきてしまった人の顔だった。
真尋は端末へ手を伸ばし、画面を閉じた。蓮は止めなかった。記録を消せるわけではない。奪われた事実も戻らない。それでも、今この部屋で、彼の目の前に置き続ける必要はなかった。黒くなった画面に、白夜の窓と二人の影が薄く映った。
膝の上で、蓮の手が震えた。真尋はその震えを見てから、ゆっくり自分の手を重ねた。すぐには包まない。逃げる余地を残す。蓮の指が引かれなかったことを確かめてから、手の甲に掌を乗せた。皮膚の下で、弱い脈が打っている。異常反応でも、保存コードでもない。目の前の男が生きている証拠だった。
真尋は、その脈に呼吸を合わせた。
自分は何者なのか。蓮の中で、その問いは形を変えながら沈んでいた。D. Belyaevaの記録。SPB-BIO VAULTの番号。署名のない同意欄。どれもが、自分の身体を自分から切り離していく。名前を剥がされ、目的だけを貼られていく。
カップの中で、赤紫の色が濃くなった。蓮はそれを見ていた。ジャムは熱に溶けるが、消えるわけではない。溶けたものは、紅茶全体の味を変える。蓮はその色を、しばらく見つめていた。
真尋は空調パネルへ手を伸ばし、温度を上げた。小さな操作音がして、風の冷たさが少し緩む。できることは、それだけだった。端末を閉じる。熱い紅茶を置く。冷えすぎた部屋を戻す。蓮の手を急がずに待つ。どれも世界を変える行為ではない。だが、誰かに奪われた身体の境界を、少しずつ本人へ返す行為だった。
蓮の肩から、ほんの少し力が抜けた。身体が真尋の側へ傾く。真尋はその動きを受け止め、ようやく腕を回した。逃げ場を塞がないように、けれど倒れないように支える。蓮の額が肩に触れた瞬間、彼の呼吸が一度崩れた。
真尋は髪に触れた。壊れたものを撫でる手ではない。慰めるためだけの手でもない。愛する男の髪に触れる手つきで、ゆっくりと撫でた。蓮の身体がこわばり、次に深く沈んだ。
窓の外では、夜になりきれない街が明るさを残していた。ネフスキー大通りの車列は、雨に濡れた舗道の上で白くほどけている。トロリーバスの架線が薄い光を受け、空に細い線を引いていた。街は眠らないのではない。眠りきれないまま、何かを見張っているようだった。
蓮は真尋の肩に顔を預けたまま、閉じた端末を見ていた。黒い板になった画面の向こうに、消えない行が残っている。REPRODUCTIVE SAMPLE。CONSENT: NOT SIGNED。文字はもう見えない。それでも、身体の奥に刻まれた感覚は消えない。
真尋の指が、蓮の髪から首筋へ移った。力を込めない。所有しない。そこにいることだけを伝える手だった。
その手に触れられて、蓮の中で別の言葉が浮かんだ。種ではない。鍵でもない。保存コードでもない。真尋が触れているのは、三村蓮という一人の男だった。
蓮は、ゆっくり真尋の背に腕を回した。強く抱きしめたい衝動を、途中で止める。真尋を壊すことが怖かった。自分の中にあるものが、いつか彼女まで巻き込むことが怖かった。だから腕の力を抑えた。抑えたことを、真尋は分かっていた。
彼女は蓮の背を一度だけ撫でた。許すためではない。責めないためでもない。逃げなくていいと、言葉の代わりに置くためだった。
蓮の唇が、真尋の肩口でわずかに動いた。
『俺は、真尋がいい』
声は小さかった。誓いというには掠れていた。だが、そこには選ばされた者の声ではなく、選ぼうとする者の重さがあった。
真尋はすぐには答えなかった。蓮の髪に触れていた指を止め、彼の言葉が部屋に沈むのを待った。冷房の風は弱まり、紅茶の湯気は細くなっている。黒すぐりの甘酸っぱい香りだけが残っていた。
『私も選ぶ。星じゃなく、私が』
それ以上、二人は言葉を重ねなかった。二人はベッドに横たわり真尋は蓮の胸に顔をうずめた。静かな時間が過ぎ、二人にはそれが永遠に続くかとさえ思えた。
蓮の腕に、初めて迷いのない力が入った。真尋はその力を受け止めた。強すぎれば離す。弱まれば支える。その境界を、二人で探るようにして抱き合った。
自分は何者なのかという問いは消えない。D. Belyaevaの名前も、保存先番号も、署名のない同意欄も、これから蓮の後を追ってくる。陳美蘭が何を探り、林月蓉がどこへ手を伸ばし、エリカの再検査が何につながるのか、今の蓮には分からない。だが、この夜に一つだけ残ったものがあった。
真尋は静かに服を脱ぎ始め、一糸まとわぬ姿で蓮の目の前に立ち、
『私だけを見て』
と静かに言った。
彼女の体は優美で匀称で、筋肉と脂肪が均衡に融合している。胸は柔らかさを想像させる大きさで、柔らかい皮膚の上から突き出ている。アミナやエリカの乳房のような力強さは無いが、その丸く豊かな塊は蓮にはとてつもなく大事なものに思えた。乳首は小さく乳輪はやや大きく、陰部と同じ黒みがかった桜色で白い肌とは対照に恥ずかしい色を放っていた。体は優しい曲線で作られていたが、黒い陰毛は短く、柔らかい質感。見慣れているはずの真尋の体は何故か蓮には新鮮で、安心感と幸福感を与えてくれた。
真尋を選ぶ。
そう思った瞬間、蓮は真尋を抱きしめ、ベッドにそっと置き被さるように自分も横になった。吸い付くように柔らかな真尋の体に手を滑らせ、初めて真尋を抱いた時と同じように乳房を揉み乳首を吸い陰部を舌で愛撫した。互いの愛情を確かめ合う長いキスの後、真尋は蓮のペニスを口に含み舌で優しく弄んだ。こんな自分を愛してくれる真尋、蓮はその愛情に感謝と安堵感を感じた。
愛液は黒人や白人に比べてアジア人は多いのは知っているが真尋の愛液の豊かさは人種の違いだけではなかった。
十分に潤っている真尋の恥部に連は優しくゆっくりと挿入し腰を動かした。その温かさと柔らかさが蓮に自分の帰る場所が真尋なのだと改めて教えてくれた気がした。
真尋の体温が高まり、彼女の喘息が増えていく。蓮の呼吸も力強くなり、互いに名を呼びながら、蓮のペニスが子宮口に何度目かに当たった瞬間に精液がその肉壷に射出された。そして蓮も真尋もその瞬間に二人が同期したことを改めて確認していた。
選別ではない。判定でもない。身体を奪った者たちが決めた保存でもない。自分の意思で、真尋を見る。真尋の手に戻る。真尋の声で、自分の名前を思い出す。2万年繋いできた血、選ばれた血、その同期こそが次の世代へのバトンだった。

紅茶は既に冷めていた。ジャムの色は底に沈み、カップを動かすたびに赤紫の筋をほどく。端末は閉じられたまま、テーブルの端でただの黒い板になっている。外の白夜は、まだ完全な夜を連れてこない。
記録は残る。奪われたものも戻らない。蓮の身体を利用しようとする者たちは、これからも彼を番号で呼ぶ。だが今夜、真尋の腕の中で、蓮は自分の名前を少しだけ取り戻した。
夜になりきれない街の明るさが、二人の影を床に重ねていた。



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