反物質Ⅲ 第15章 男鹿の封印

それから2か月後、ORPHEUSの警告は、午前3時17分に上がった。
レマン湖、バイカル湖、男鹿のマール。三つの観測点で、同じ周期の揺れが揃った。画面上ではただの線だった。だが、CERNの閉域室にいた研究員たちは、その線が意味するものを理解していた。
同期が始まった。
前日、日本に着いた蒼真は男鹿へ向かう車の中で、その報告を受けた。隣には澪がいる。彼女は余計なことを聞かなかった。タブレットに表示された波形を見て、必要な質問だけをした。
『蓮はどこ』
『バイカル側の施設を出た。こっちへ向かっている可能性が高い』
『真尋さんは』
『一緒だ』
澪はそこで画面を閉じた。
蒼真は窓の外を見た。夏の終わりの空が、まだ薄く明るい。男鹿へ近づくほど、山と海の匂いが混ざっていく。ここは蒼真にとって、父の土地であり、母の不在が濃く残る土地でもあった。

夕方、男鹿の観測施設に全員が揃った。
慎一、郁子、坂口怜奈、坂口怜奈に指名を受け日本に来たCERN側の若手研究員ジュリアン・モロー。エリカはレマン湖側から暗号回線で接続している。ナディアは倫理監査の立場でエリカのいる場所で同席し、イリーナはロシア側の回線に潜り、蓮の移動経路を流してきた。イリーナが手配した非公式便と、政府側が用意した移送車両を継ぎ、蓮と真尋は夜までに男鹿へ滑り込んだ。
多くの人間が関わっていた。
だが、最後に湖底へ向かうのは蒼真と蓮だった。
蓮は夜になって現れた。真尋を連れていた。極東ハバロフスクから新潟経由で2人はやってきたため彼女の顔は疲れていたが、蓮の腕にしがみついてはいない。自分の足で立っていた。
蓮は蒼真を見て、笑わなかった。
『お前が閉じる側か』
『お前が開く側だと言うならな』
『開いた先を見ずに閉じるのは、臆病者のすることだ』
『人を材料にして開くなら、見る価値はない』
会話は短かった。
慎一は2人を見ていた。蒼真と蓮は同じ年に生まれ、違う場所で育ち、違う女たちに触れ、同じ星の痕跡へ引き寄せられた。どちらかが完全な正義で、どちらかが完全な悪ではない。だが、選ばなければならない時は来る。
湖底探査用の小型艇が、黒い水面へ下ろされた。水面は風を受けて細かく揺れている。ライトが水の中へ落ちると、底へ向かう線だけが白く伸びた。
ORPHEUSの音声が、閉域回線に流れた。
THREE-POINT SYNCHRONIZATION: THRESHOLD EXCEEDED
三点同期、閾値を超過。
OGA MAAR STRUCTURE: RESPONSE INITIATED
男鹿マール構造物、応答開始。
蒼真はヘッドセットを直した。
蓮も同じ艇に乗った。真尋がその前で立ち止まる。
『蓮』
蓮は振り返った。
真尋は泣かなかった。
『戻ってきて。世界を変えるためじゃなくて、私のところに』
蓮の顔がわずかに歪んだ。澪は同じセリフを目で蒼真に送った。蒼真は軽く頷いた。
蓮の表情を見て、蒼真は初めて蓮の弱さを見た気がした。蓮は世界を開きたいのではない。自分が捨てられなかったことを、世界に証明したいだけなのかもしれない。
艇が沈み始めた。
水はすぐに窓を覆った。ライトの先に、湖底の泥と岩が見えてくる。その奥に、人工物の一部があった。円盤とも、柱とも、船体とも断定できない。泥に埋もれた巨大な構造物の、露出した縁だけが淡く光っている。
蓮の呼吸が変わった。
『聞こえる』
蒼真には何も聞こえなかった。だが胸の奥で、血が引かれるような感覚はある。
構造物の表面に、青白い線が走った。
同時に、バイカル湖側とレマン湖側の波形が跳ねた。エリカの回線から、短い息が漏れる。澪と真尋の生体センサーも上がった。
女たちの体が、遠く離れた場所で同じ仕組みに触れていた。
蒼真は制御盤に手を置いた。
『蓮、ここで止める』
『俺は止まらない』
蓮が手を伸ばした。
2人の手が、同じ発光面に触れた。
水の中で、光が広がった。

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