男鹿の水面は、翌朝には何もなかったように静かだった。
観測施設の外では、濡れた機材が並べられている。夜通し動いた発電機は止まり、作業員たちの声も低い。大きな爆発は起きなかった。町に被害も出なかった。ニュースに出せるような事件は、ほとんど何も残っていない。
だが、閉域回線の中では、多くのものが失われていた。
湖底構造物の応答は停止した。レマン湖とバイカル湖の同期も落ちた。ORPHEUSは、最後の17分間の記録を解析不能として隔離した。データはある。欠損も少ない。それなのに、因果の順序が組めない。
蓮は戻らなかった。
小型艇は浮上した。蒼真だけが収容された。意識はあったが、しばらく言葉を出せなかった。艇のもう一つの座席には、蓮が座っていた痕跡だけが残っていた。安全ベルトは切れていない。ハッチも開いていない。水圧の異常もない。
蓮の体だけが、湖底の光の中へ消えた。
真尋はその報告を聞いても、すぐには泣かなかった。
彼女は観測室の椅子に座り、蓮が最後に立っていた場所を見ていた。誰かが肩に手を置こうとすると、静かに首を振った。慰めを拒んだのではない。まだ蓮の不在を、体が理解できていなかった。
慎一は少し離れたところにいた。
林月蓉からの連絡はない。紅月会の回線も沈黙している。坂口怜奈は、政府側の記録から消すべき情報と、残さなければならない情報を分けていた。顔には疲れが出ていたが、手順は乱れなかった。
郁子は施設の窓から湖を見ていた。
『また女たちだけが残されたね』
その声は小さかった。
慎一は答えられなかった。
澪は蒼真の病室にいた。蒼真の手を握り、何度も同じ呼吸に合わせている。蒼真は目を開けていたが、湖底で何が起きたのかをまだ話さない。話せないのではなく、言葉にすると蓮が完全に消える気がしていた。
昼前、レマン湖側からエリカの映像が届いた。
彼女は椅子に座っていた。顔色は悪いが、目ははっきりしている。背後には医療機器が並び、CERNの医師が何人か動いていた。
『こちらの反応は落ち着いたわ』
エリカはそう言った。
蒼真は画面を見た。
『体は』
『検査中よ』
エリカは少しだけ笑った。使命感で強がる笑いではない。自分がしたことの重さを分かっている女の笑いだった。
『たぶん、何かが残っている』
澪の手に力が入った。
エリカは澪を見た。
『あなたから奪うつもりはない。そう言えば嘘になるわね。私は奪うつもりで動いた時もある。でも、今は違う。これは誰の勝ち負けでもない』
澪はすぐには答えなかった。
蒼真は、エリカの言葉を逃げとして聞かなかった。彼女は蒼真と蓮の両方に触れ、星の仕組みを自分の体で受け入れた。その結果が何で
あれ、簡単に裁けるものではない。
真尋はその映像を見ていなかった。
彼女は別室で、蓮の残した上着を膝に置いていた。午後になって、医療スタッフが彼女の体調を確認した。数値は大きく乱れていない。ただ、いくつかの項目に再検査が必要と出た。
真尋はその紙を見ても表情を変えなかった。
蓮がいない世界で、自分の体だけが何かを覚えている。その可能性を、まだ受け止められなかった。
ナディアは報告書の最後に、短い一文を残した。
選ばれなかった者にも、愛した事実は残る。
アミナは眠ったままだった。医療区画のモニターには、弱いが安定した波形が続いている。蓮を救おうとして壊れた彼女の体もまた、この事件の証言だった。
イリーナはロシア側へ戻らなかった。彼女が送った内部資料によって、ヴィクトル・セロフの計画の一部は止まった。だが、すべてが消えたわけではない。星の因子を兵器へ変えようとする者は、必ずまた現れる。
夕方、慎一は施設の外で林月蓉からの短いメッセージを受け取った。
――反応は消えていない。私の中にも、あなたの中にも。
慎一はしばらく画面を見た。
返信はしなかった。
林を許したわけではない。自分を許したわけでもない。ただ、あの夜をなかったことにはできないと分かっていた。茜を失ってから止めていた時間が、乱暴な形で動いた。そのことを、慎一は否定しないことにした。
湖の方から風が来た。
蒼真は杖を使わずに病室を出て、澪と一緒に外へ出た。足取りはまだ重い。澪は支えようとしすぎず、隣を歩いた。
『蓮は、最後に何をしたの』
澪が聞いた。
蒼真は湖を見た。
『開こうとした。でも、最後に止めた』
『自分で?』
『たぶん』
蒼真はそこまで言って、息を吐いた。
『俺だけじゃ閉じられなかった。蓮が、最後に手を離した』
澪はそれ以上聞かなかった。
水面には、夕方の光が細く伸びていた。あの下に何が残っているのか、誰にも分からない。湖底の構造物は沈黙したが、完全に死んだとは言えない。星の選別は止まったのか、それとも形を変えただけなのか。
答えは、まだ出ない。
ただ、残された者たちは生きていた。
澪は蒼真の手を握った。
真尋は蓮の上着を抱いたまま、再検査の結果を待っていた。
エリカはレマン湖の医療区画で、自分の腹に手を置いた。
林月蓉は遠いホテルの部屋で、消えない低い反応値を見つめていた。
慎一は男鹿の風の中で、茜の名を心の中で呼んだ。
誰の子か分からない命。
誰に選ばれたのか分からない女たち。
誰かを救えたのか分からない男たち。
反物質が残したものは、爆発ではなかった。
残された火種だった。



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