第1章 鬼面の来訪者

2万年前、男鹿半島の海岸線は現在よりも少し日本海側へ広がり、冬の海は低い雲の下で鈍く光っていた。氷期の風は硬く、森は現在のような豊かさをまだ持たない。それでも人はいた。季節を追い、獣を追い、魚を獲り、火を囲み、石を割った。やがて縄文へ連なっていく定住と祈りの萌芽が、森と海の境に息づいていた。

ミリアが最初に見た地球の空は、彼女の故郷の空より低かった。大気は湿り、星は濁り、重力はわずかに重く感じられた。だがその重さこそが、彼女には救いだった。船の外殻を叩く水蒸気爆発の音、仲間の叫び、航法核の警告。すべてが船内の通路を震わせる中で、ミリアはまだ生きている子供たちを数えた。文明を逃れてきた者たちが、文明の最も危険な火を抱えて墜ちた。その矛盾が、彼女の胸に青い血の痛みとして溜まっていった。

火の尾を引くものは海ではなく山の奥へ落ちた。そこには、すでに丸い湖があった。後の一ノ目潟である。古い火山の穴は、星間船を飲み込み、2万年もの間その姿を隠した。

オルマ星人は、戦争に敗れて地球へ来たのではなかった。むしろ、勝ち続けたことに耐えられなくなって逃げてきた。反物質を安定させる技術は、もともと長い航海のために作られた。星と星の間を渡るための小さな太陽。だが、その太陽を容器に閉じ込められると知った瞬間、議会はそれを抑止力と呼び、軍は均衡と呼び、商人は市場と呼んだ。ミリアはそのすべての言葉を聞いた。言葉が変わるたびに、死者の数は増えた。

宇宙船の中で、航法士ミリアは額から流れる青い血を拭った。オルマ星人は容姿は人類によく似ていた。違っていたのは、反物質を火ではなく風のように扱う文明を作ってしまったことだった。恒星間航行のための技術は、都市を消す指先にもなった。ミリアたちはその罪から逃げ、罪の種を抱えたまま、この若い星に墜ちた。

ミリアの仲間たちは、地球で生き延びる方法を巡って分裂した。人間から離れ、船とともに眠るべきだと言う者。知識を与え、人間を導くべきだと言う者。反物質の核を破壊し、この星から危険を消すべきだと言う者。ミリアはどれにも完全には賛成できなかった。知識は与えれば刃になる。核を壊せば、封印に失敗したとき大地ごと消える。眠れば、いつか誰かが知らずに起こす。彼女が選んだのは、人間の血に警告を混ぜることだった。それは合理的な解決ではない。合理を尽くした文明が滅びかけたからこそ、彼女は不確かなものに賭けた。

人間たちは、墜落した彼らを神とも鬼とも決めかねた。青い血、夜に光る瞳、傷を塞ぐ奇妙な樹脂、火を使わずに金属を曲げる道具。恐れが信仰になるまでには時間がかからなかった。やがて人間は、彼らの姿を山から来る鬼の面に重ねた。大きな刃物を手に、桶を抱えて家々を巡る異形の来訪者。怠け心や悪を切り取り、泣く子の声を掬い上げて山へ持ち帰るもの。オルマ星人が残した記憶は、恐怖と戒めの形を借りて、なまはげの原像へ紛れ込んでいった。

だがミリアは崇められることを嫌った。崇拝は、いつか支配へ変わる。彼女は面を作らせた。顔を隠せば、異形は個人ではなくなる。個人ではなくなれば、人間は彼らを物語に変えられる。物語に変わったものは、長く生きるが、命令はできない。

人間たちは、山にいる異形の来訪者を鬼と呼んだ。オルマ星人たちは面をつけた。怠けを戒める声、泣く子を探す声、悪を罰する足音。

「泣ぐ子(ゴ)は居ねがー」

「悪い子(ゴ)は居ねがー」

その奇声は、ただ子供を脅すためではなかった。人間が自分の欲望を見失ったとき、山から来る者がいる。そういう記憶を、集落の身体に刻むための声だった。

ミリアは最後に、人間の男と子をもうけた。禁忌だった。けれど、オルマ星人の血を完全に絶やせば、宇宙船の警告を読み解く者も消える。血はやがて赤へ戻った。だが青は消えなかった。網膜の奥、神経の反応、磁場に触れた時の皮膚の微かな震えとして残った。その子孫の名が深山慎一になるまで、2万年の時が必要だった。

子が生まれた夜、湖は凍っていた。赤子の血は赤く、その奥にだけ青い光があった。ミリアは安堵し、同時に恐れた。血が薄まれば、警告も薄まる。だが濃すぎれば、人間の歴史にまた兵器が現れる。彼女は船を湖底へ沈め、反物質核を眠らせ、子孫の血にだけ封印の鍵を残した。

『使う者ではなく、止める者であれ』

その願いは言葉では伝わらなかった。血の震えとしてだけ、遠い未来へ送られた。

ミリアが人間の男を愛したのは、使命に疲れたからではなかった。彼が彼女を神とも鬼とも呼ばなかったからである。男は、彼女が水辺で傷を洗っているところへ鹿肉を置き、何も言わずに去った。翌日も、翌々日も。やがて彼は石器を研ぐ手つきで、ミリアの壊れた器具の縁を磨いた。理解できないものを理解したふりで支配しない。その沈黙が、宇宙のどの言語よりもミリアに深く届いた。

面の儀式は、最初は悲しみを隠すためのものだった。異星の顔を見せれば、人間は恐れ、子供は泣く。だから彼らは木の面をかぶり、鬼として山から来た。泣く子を探す声は、人間を罰するためではなく、泣き声を聞き分けるためだった。危険な欲望に泣いている子供。大人の都合で黙らされる子供。未来のどこかで反物質の火に触れそうな子供。ミリアはその声を、人間の祭りへ紛れ込ませた。恐怖が祭りに変われば、忘れられずに済む。忘れられないものだけが、二万年を越えて誰かへ届く。

コメント

タイトルとURLをコピーしました