第5章 観察者の孤独

ヘルシンキの夜のあと、茜は慎一の前から消えた。だが、彼女が慎一を見たのは、その夜が初めてではない。それはヘルシンキより七年前、2009年秋のことである。慎一は八洲重工業へ籍を置きながら大学院との共同研究に出入りし、反物質封じ込めの異常予兆解析を担当し始めていた。茜は東京大学大学院で国際政治と安全保障を学び、坂口正武の研究会に出入りしていた。

場所は秋田・伊勢堂岱遺跡。環状列石は、石の配置である以上に、死者と生者の距離を測る装置のように見えた。

伊勢堂岱遺跡で初めて慎一を見たとき、茜は彼を危険人物だとは思わなかった。むしろ、危険なものに巻き込まれる側の人間に見えた。環状列石の説明を聞きながら、彼は誰よりも熱心に石を見ているのに、誰とも目を合わせなかった。質問されると正確に答える。だが答え終わると、すぐ風の音を聞くように黙る。茜はその横顔に、自分が母から受け継いだ孤独と似たものを見つけた。

茜は資料の中で、深山慎一の名を見た。

「1981年2月17日生。母方は男鹿半島に古くから縁を持つ家系。不明遺伝形質。幼少期から反復夢。磁気反応検査に特異値」

人間を資料にすると、どんな孤独も数行で済んでしまう。だが、環状列石の前に立つ慎一を見たとき、その数行が急に体温を持った。

坂口正武の研究会は、学術の形をした監視網でもあった。国際政治、資源安全保障、先端技術管理。学生たちは熱心に議論したが、配布資料の余白には、彼らが知らない別の目的が潜んでいた。茜はそのことに気づいていた。気づいた上で、そこに残った。自分の血筋が何かに使われるなら、使う側の言葉を知らなければ抗えない。彼女にとって学問は、逃げ場ではなく、監視者を監視するための刃だった。

茜は講義室で国家安全保障という言葉を聞くたび、その言葉が誰の身体を通って現実になるのかを考えた。地図上の線、海底資源、抑止力、技術優位。教員も学生もそれらを抽象として扱う。だが抽象の最後には、いつも誰かの腹の奥に宿る子や、誰かの父の死や、誰かの沈黙がある。茜が慎一の資料を読む手を止めるのは、彼の名前がその抽象の末端ではなく、中心に置かれていたからだった。

坂口麗子の死は、茜にとっても一つの境界だった。病室の生成りのカーテンの向こうで、麗子は正武に古い血の話をした。茜は直接その場にはいなかったが、後に正武から断片だけを聞かされた。湖底、男鹿、青い光、母方の血。正武はそのときから変わった。優しい保護者の顔を残したまま、何かを管理しなければならない男になった。茜は彼を憎みきれなかった。彼が最初に抱いたものは、支配欲ではなく恐怖だったからだ。だが恐怖を理由に人を縛るなら、それは結局、支配と同じ形になる。

坂口正武の失敗は、悪意の失敗ではなかった。だからこそ厄介だった。彼は茜を守りたいと思っていたし、慎一を暴走させたくなかったし、日本を誰かの恫喝に晒したくなかった。それらは一つ一つ取り出せば、どれも理解できる願いだった。だが、理解できる願いを積み上げた先に、理解できないほど冷たい仕組みができることがある。茜はそのことを、坂口の優しい声の中に聞いていた。

茜がこの任務に選ばれたのは、語学や記憶力のためだけではない。彼女の母もまた、オルマ星人の遠い血を濃く残す「選ばれた末裔」のひとりだった。母はそれを名誉とは呼ばなかった。夜中に水の音で目を覚まし、夢の中で青い光を見ることを、ただ家系の厄介な癖として抱えていた。茜はその沈黙を受け継いだ。だから慎一を見るとき、彼女は監視対象を見るのではなく、自分と同じ暗い湖を内側に持つ人間を見ていた。

母は茜に、血の話をほとんどしなかった。ただ、雷の夜や地震の前に、台所の電灯が青く見えることがある、とだけ言った。幼い茜は、それを母の気のせいだと思っていた。だが大学院で古い資料を読むうちに、同じ記録が形を変えて何度も現れた。湖の底で光るもの。鬼の血。男鹿から来た女。坂口家に嫁いだ麗子の死の間際の告白。断片は、誰かが意図的に隠したのではなく、長すぎる時間の中で粉々になった鏡のように散っていた。

ヘルシンキからの帰国後、茜は坂口正武の執務室で報告した。坂口は悪人ではなかった。悪人なら、茜はもっと簡単に憎めた。彼は妻・麗子の死の間際の告白を聞き、湖底宇宙船とオルマの血を追い始めた監視者だった。国家が怪物になる瞬間を、誰よりも恐れている。だからこそ、その怪物に首輪をつけようとして、怪物の首に自分の手を近づけすぎていた。

茜が慎一のファイルに初めて自分の手書きメモを加えたのは、2009年の秋だった。

「対象は利用可能な鍵ではなく、強い倫理的抵抗を持つ研究者。接触時には恐怖を煽るより、自己決定の余地を残すべき」

その一文を読んだ坂口正武は、しばらく黙ってから言った。

「君は、彼に同情しているのか」

茜は答えた。

「同情ではありません。似ているだけです」

正武はそれ以上聞かなかった。似ているという言葉の危険さを知っていたからだ。

ヘルシンキ後、茜は報告書を書く手を何度も止めた。慎一の身体の温度、彼が自分を抱くときのためらい、朝方に見せた置き去りにされた子供のような目。それらは報告書に書くべき情報ではない。けれど、書かなければ、慎一という人間は再び資料の中へ押し戻される。茜は結局、任務上必要な事実だけを書いた。そして提出しない個人メモにだけ、小さく記した。

「彼は止める側へ行ける。たぶん、まだ間に合う」

観察者であることは、茜を少しずつ孤独にした。見ている者は、見られる者と同じ場所に立てない。慎一の資料を読み、行動記録を追い、健康値の異常を確認するたび、彼女は彼へ近づいているようで、遠ざかっていた。だからヘルシンキで実際に声を聞いたとき、彼女は自分がいかに勝手な物語を作っていたかを知った。資料の慎一は悲劇的な鍵だった。目の前の慎一は、疲れ、疑い、時に皮肉を言い、冷めたコーヒーをまずそうに飲む男だった。その生々しさが、彼女の任務を難しくした。

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