時間は、白神の封印より少し前へ戻る。
2018年3月上旬、羽田空港の国際線ターミナルは、夜になっても明るかった。出発案内の表示にはソウル行きの最終便が並び、ガラスの向こうでは滑走路の灯が雨に滲んでいた。崔明珠は搭乗口へ向かう途中で足を止め、洗面室の奥の個室に入った。
安比高原の夜から、三週間あまりが過ぎていた。任務の報告書はすでに提出した。深山慎一は核心を語らなかった。白神、神籠、田代、そのどの名も彼の口からは奪えなかった。上層部にとって、彼女の接触は失敗に分類されるはずだった。
だが明珠の身体は、報告書とは別の答えを出していた。朝の珈琲の匂いが耐えられなくなった。空港へ向かう車の揺れで、胸の奥が冷たく沈んだ。何より、彼女は自分の暦が静かに途切れていることを知っていた。だから午後、誰にも見られない薬局で、小さな箱を買った。
検査薬の表示は、迷う余地のない線を浮かべていた。
明珠はしばらく息をしなかった。泣くことも、笑うこともできなかった。工作員として最初に考えるべきことは、情報の保全だった。誰に知られるか。どの組織が利用するか。どの名簿に載せられるか。どの検査を受けさせられるか。彼女の頭は、訓練どおりに危険を数え始めた。
その途中で、彼女は初めて腹に手を置いた。
まだ何も感じるはずがない。重みも、動きも、声もない。けれど、そこに何かが始まっているという事実だけは、どんな機密文書よりも確かだった。安比の夜は、単なる罠では終わらなかった。彼女が奪えなかった秘密の代わりに、慎一の血が、彼女の身体の中に残っていた。
それを成果と呼ぶことはできなかった。失敗と呼ぶこともできなかった。成果なら報告しなければならない。失敗なら処分を受ければ済む。だがこれは、そのどちらにも属さない。任務の言葉が届かない場所で、彼女の人生だけが静かに向きを変えていた。
彼女は検査薬をティッシュで包み、さらにハンカチで包んで、鞄の奥へ押し込んだ。スマートフォンには、ソウル到着後の報告予定が暗号化されて入っている。瑞妍からの短い確認メッセージも届いていた。帰国後に会おう、というだけの文だった。明珠は返信しなかった。
慎一に知らせることはできない。韓国側の上司にも、瑞妍にも、誰にも言えない。言えば、この子は生まれる前に名前を奪われる。血統、鍵、交渉材料、研究対象。人間になる前に、役割を与えられる。彼女はその未来を、はっきりと想像できた。想像できたからこそ、黙るしかなかった。
沈黙は、彼女がこれまで何度も使ってきた武器だった。相手の反応を読むための沈黙。情報を隠すための沈黙。任務を守るための沈黙。だがこの夜、彼女が選んだ沈黙は少し違っていた。誰かを欺くためではない。まだ名もない命が、誰かの計画に触れられる前に、ほんの少しだけ時間を稼ぐための沈黙だった。
搭乗開始の案内が流れた。明珠は鏡の前に立ち、口紅を引き直した。顔色は悪くなかった。むしろ、いつもより静かに整って見えた。訓練された女の顔。何も持ち帰らなかった工作員の顔。そして、誰にも知られないものを持ち帰る女の顔だった。
ソウル行きの夜便は、定刻より少し遅れて動き出した。機体が滑走路へ向かうあいだ、明珠は窓の外を見ていた。東京の灯は遠ざかり、雨粒が細い線になって流れた。彼女は腹に手を置かなかった。置けば、隣の乗客に見られる気がした。けれど意識だけは、ずっとそこにあった。
白神で青い火が眠ることになるなど、この時の明珠はまだ知らない。男鹿で慎一と茜の子が生まれることも、知らない。自分の中に宿った命が、いつか別の少年と向かい合うことになるかもしれないなど、考えることもできなかった。
それでも、彼女は一つだけ理解していた。血は国境で止まらない。秘密は封印しても、別の身体の中で続いていく。人が触れてはいけないものに触れたとき、その代償は研究施設の中だけに残るのではない。愛でもなく、任務でもなく、罪とも呼びきれない形で、次の世代へ渡ってしまうことがある。
機体が浮いた。東京の灯が一瞬だけ窓の下に沈み、やがて黒い雲に隠れた。明珠は目を閉じた。眠るためではない。自分の中に始まった小さな未来を、誰にも見られない暗闇の中で、初めて正面から見つめるためだった。
やがて白神で眠るはずの青い火は、まだ誰にも知られない別の場所で、別の形を取り始めていた。



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