2017年の秋から2018年の初めにかけて、日本海側の空気は少しずつ硬くなっていった。北朝鮮のミサイル実験、韓国との大陸棚協定をめぐる再燃、そして第7鉱区の共同開発をめぐる古い火種。テレビの討論番組では専門家が地図を指し、海底資源という言葉が繰り返された。だが慎一には、地図の線の下に別の線が走っているように見えた。
朴瑞妍(パク・ソヨン)と出会ったのは、東京・丸の内のホテル会議施設で開かれた日韓エネルギー安全保障の非公開ラウンドテーブルだった。彼女はソウルの政策研究所に所属する研究員として登録されていたが、質問の仕方が研究者ではなかった。誰が答えを避けるか、どの名前で空気が変わるか、それを見ている。慎一はすぐに、彼女が知識ではなく反応を集めていることに気づいた。この会議施設はホテルの中にあるため、無論ラウンジと客室があり、これは移動の不自然さを消し、酔いと判断の緩みが連続するようにするためである。
瑞妍は派手な女ではなかった。柔らかな灰色のワンピースに、細い銀のイヤリング。声も低く、相手を急かさない。だが近くで見ると、抑えた服の下に豊かな輪郭を隠していることがわかった。茜の沈黙が自分と同じ檻にいる者の苦さを持っていたのに対し、瑞妍の沈黙は、檻の外から鍵穴を覗く者の静けさだった。彼女は押してこない。相手が自分で近づいたと思う速度で、距離を詰める。
「第7鉱区の話は、海底資源だけでは終わりません」
瑞妍はホテルラウンジで言った。
「日本が突然、交渉で強くなる理由があるなら、韓国側はそれを知ろうとします。中国も、アメリカも」
慎一は水の入ったグラスを見つめた。
「俺は資源政策の専門家じゃない」
「でも、資源を守る技術には詳しい」
その夜、瑞妍は慎一を強い酒で酔わせようとした。会話は穏やかだったが、グラスは絶えず満たされ、質問は少しずつ核心へ近づいた。白神、田代、神籠。慎一は答えなかった。酔いが頬へ上がり、記憶の縁が柔らかくなっても、身体のどこかが危険を覚えていた。茜の声が胸の奥で鳴った。答えてはいけない。瑞妍はその抵抗を壊すのではなく、身体の奥からほどくように微笑んだ。自分の部屋に戻る途中偶然にも同じフロアの瑞妍の部屋に慎一は立ち寄ったがいつになく酒を多く飲んでいる自覚はあった。
お茶を勧められて入った瑞妍の部屋で、瑞妍は最後の賭けに出た。彼女は身につけていたものを一つずつ外し、慎一の前に、政治でも資料でもない生身の女として立った。茜とは違う別の曲線を持つ美しい身体だった。強い酒のせいか慎一のそれは反応が鈍かったせいで、瑞妍は口に咥えながら慎一の表情を窺っていた。瑞妍の舌は何かの継ぎ目や隙間でも探すような動きで慎一自身を長い時間弄んでいた。慎一は瑞妍の中に入りこみ果てることは避けることができた。
慎一はその姿を、翌朝になっても断片として覚えていた。香り、近づく体温、低く湿った声、腕の中へ沈む重み。だが彼女が求めた質問への答えだけは、彼の中から引き出せなかった。肉体は揺らいでも、白神の名だけは沈黙の底に残った。
朝、慎一は自分の弱さに吐き気を覚えた。彼女に完全に屈したのではない。だが完全に拒めたわけでもない。その曖昧さが、いちばん彼を傷つけた。瑞妍は失望を顔に出さず、ただ
「あなたは、思ったより茜さんに守られている」
と言った。慎一はその名を聞いた瞬間、眠っていた怒りが戻るのを感じた。彼は部屋を出て、二度と彼女と二人きりでは会わないと決めた。
数週間後、慎一は他の研究者に誘われ、岩手県の安比高原へ出かけた。表向きは雪氷環境でのセンサー試験と、研究者同士の親睦を兼ねた小旅行だった。白神の地下にこもりきりだった慎一に、周囲は休息を勧めた。だが休息にも、誰かの意図が入り込む余地がある。ホテルの暖炉の前で、彼に声をかけたのが崔明珠(チェ・ミョンジュ)だった。
崔明珠は、韓国側の女性工作員だった。表向きは海洋調査会社のシステム管理者。実際には、複数の民間研究所と政策研究所をつなぐ情報仲介者である。彼女は茜よりも儚げに見えた。雪光を透かしたような肌、細い肩、静かな瞳。だが、その弱さは演技だった。慎一の疲労と罪悪感を見抜き、そこへ正確に手を伸ばしてきた。
安比のホテルの夜は、東京のホテルより静かだった。窓の外では雪が音を吸い、廊下の足音さえ遠かった。明珠は慎一の部屋の前に立ち、
「話をし

たいだけ」
と言った。慎一は疲れていた。長い研究生活、茜への罪悪感、白神の圧力。判断力が少しずつ摩耗していることを、彼自身もわかっていた。わかっていながら、扉を開けた。
明珠は、瑞妍よりも静かで、より逃げ場のない女だった。言葉で遠回りせず、慎一の孤独をそのまま抱くように近づいた。雪明かりの部屋で、彼女の身体は硝子細工のように透き通って見えたが、触れれば確かな温度があった。露骨な誘いではない。静かな圧だった。凍った湖面の下で水が動いているように、表面は穏やかなのに、奥では確かな力がうねっていた。慎一は茜を思い出し、同時に、茜ではない女の体温に自分が揺らいでいることを知った。その事実が、彼をさらに深く沈ませた。一方で男の本能は正直な反応をせざるを得なかった。
夜の記憶は、翌朝になると霧のように途切れていた。明珠の髪の匂い、肩越しに見えた雪、押し殺した声、互いの体温が戻れないところまで重なった感覚、そして自分が決定的な質問には答えなかったという確信だけが残っている。行為の細部よりも、慎一を苦しめたのは、彼が一夜をともにしてしまったという事実だった。朴瑞妍で懲りたのではなかったのか。
茜の顔が浮かび、すぐ消えた。消えたのではない。見られなかったのだ。
明珠は、慎一が白神や神籠について話さないことを早い段階で見切っていた。だから質問を変えた。疲れているのか。誰を待っているのか。守りたい女がいるのか。答えが情報にならない問いほど、人間の輪郭を深く暴く。慎一は何度も黙った。その沈黙の中で、彼は茜への裏切りと、自分自身への失望を同時に聞いていた。
この一夜は、秘密を奪うための成功ではなかった。むしろ、秘密を守ったまま慎一を傷つけるための成功だった。明珠はそれを理解していた。男が何も話さなかったことは、任務の失敗であると同時に、別の成果でもある。慎一の心に残った空白は、後に白神で封印を選ぶ彼の痛みを、さらに鋭くすることになる。
明珠は朝、何も求めなかった。だからこそ恐ろしかった。情報を得られなかった工作員は、普通なら焦る。だが彼女は焦らない。慎一の沈黙そのものを持ち帰れば十分だと知っているようだった。誰が何に答えないか。どの名前で顔色が変わるか。諜報とは、時に空欄を集める仕事でもある。しかし、彼女の身体の中に残った慎一の暖かなものは、工作員にとって十分すぎるものであり、後に別の火種として戻ってくる。
茜は後に、安比の宿泊者記録を見た。嫉妬はあった。怒りもあった。だが、それ以上に慎一が一人で壊れかけていたことへの悔しさがあった。任務として近づいた自分と、罠として近づいた瑞妍や明珠の違いは何か。茜はその問いから逃げられなかった。違いがあるとすれば、彼女が慎一を道具として終わらせたくなかったことだけだった。
第7鉱区をめぐる韓国側の接近と、南鳥島をめぐる中国側の探りと工作は、別々の動きではなかった。海底資源、同盟、抑止力、白神の青い振動。世界はまだ兵器の正体を知らない。だが、何かがあることだけは感じ始めている。慎一はその事実に戦慄した。秘密は、守られている間だけ存在するのではない。疑われ始めた瞬間から、もう外交の現実になる。
2018年2月、慎一はプラハへ向かう航空券を取った。茜に会うためであり、同時に、自分が何を守りたいのかを確かめるためだった。雄太から聞いた中国の月華、韓国の瑞妍、明珠。外から向けられる目が増えるほど、慎一は一つのことを思い知らされた。自分たちが選ばなければ、誰かが勝手にこの力の意味を決めてしまう。



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