第12章 胎動する鍵

2018年3月下旬、茜が慎一に妊娠を告げたのは、東京ではなかった。男鹿半島の戸賀湾の水族館に近い海岸で、冬の波が岩を叩く午後だった。慎一は言葉を失った。驚きより先に、恐怖が来た。自分の血が何であるかわからない。その血が、茜の中で次の命になっている。祝福したいのに、祝福という言葉があまりに軽かった。

茜が検査薬の表示を見たとき、最初に感じたのは喜びではなく、静けさだった。世界の音が遠のき、浴室の換気扇だけが乾いた音を立てている。彼女は鏡の中の自分を見た。肌の明るい印象の顔、少し乱れた髪、唇の奥に戻らない血の色。身体のどこにもまだ変化はない。それなのに、彼女の中ではすでに世界の配置が変わっていた。任務、組織、国家、慎一。すべてが、腹の奥の小さな沈黙を中心に並び直し始めていた。

「産むのか」

言った瞬間、慎一は自分の声を憎んだ。茜は怒らなかった。むしろ、彼の頬に手を当てた。

「産みたい。でも、それだけでは済まない」

茜の中には三つの声があった。任務の声は、この子が次の鍵になると告げる。愛情の声は、慎一と生きたいと願う。血の声は、2万年の記憶がここで終わらず続くことを知っている。どれか一つを選べば済むなら、彼女はとっくに選んでいた。

慎一に告げるまでの数日間、茜は普通の生活を演じた。資料を読み、報告を書き、坂口からの電話に出た。だが紙の文字はすぐ揺れた。『次世代鍵反応の遺伝可能性』という見出しを見た瞬間、彼女は書類を閉じた。まだ誰にも知られていない子が、すでに誰かの仮説の中で名前を奪われようとしている。茜はそのことに激しい怒りを覚え、自分が母になり始めていることを知った。

その日から、茜は自分の身体を資料から奪い返すように暮らした。体温を測るたび、数値ではなく内側の静けさを聞いた。吐き気が来れば、任務に支障が出る兆候ではなく、子がここにいる証として受け止めようとした。国家は名前をつけたがる。次世代鍵反応、遺伝形質、管理対象。茜はそのどれでもない名前を、まだ生まれていない子のために探し始めた。

坂口正武から連絡が来た。

「体調は」

「問題ありません」

「深山に話したか」

「話しました」

沈黙があった。坂口は父親ではない。だが茜にとって、父親のような顔をした監視者だった。

「その子は、国家にとって重要になる」

茜は海を見た。自分の唇が、ゆっくり動いた。

「この子は、国家のものではありません」

電話の向こうで、坂口は何も言わなかった。その沈黙が、初めて彼の敗北のように聞こえた。

茜の身体は、少しずつ任務に向かないものへ変わっていった。眠気、吐き気、匂いへの過敏さ。坂口の部屋で出された珈琲の匂いに顔を背けたとき、正武は何も言わなかった。ただ、机の上の灰皿を遠ざけた。その仕草に茜は胸を突かれた。彼は監視者でありながら、時々あまりに普通の保護者の顔をする。だから憎みきれない。憎みきれない相手に抵抗することは、単純な敵と戦うよりずっと難しかった。

男鹿の海で告げたとき、慎一の顔から血の気が引いた。茜はその反応を責めなかった。彼女自身も怖かったからだ。愛した男の子を宿すことが、同時に兵器計画の核心になる。そんな運命を、誰がすぐ祝福できるだろう。慎一が

「産むのか」

と言ったとき、茜は彼の言葉の下にある恐怖を聞いた。彼は逃げたいのではない。自分の血が子を不幸にすることを恐れている。

慎一はその夜、母方の実家に残る古い箱を開けた。藁の切れ端、赤黒い石、読めない文字で刻まれた薄い金属片。金属片に触れた瞬間、ミリアの記憶が流れ込んだ。墜落。水蒸気。泣く子供。面をつける同胞。生まれた子の泣き声。反物質は、兵器ではなかった。星々の間を渡るための風だった。だが風は、閉じ込め方を間違えれば刃になる。

慎一は茜の腹に手を当てた。まだ何も聞こえない。だが、血の奥で別のリズムを感じた。

「この子は鍵じゃない」

「ええ」

「国家のものでも、田代のものでも、坂口のものでもない」

「私のものでもないわ」

茜は言った。

「この子自身のものよ」

その言葉で、慎一は初めて泣いた。泣き声はなかった。ただ、長い時間をかけて凍っていたものが、目から水になって落ちた。

坂口正武は、茜の妊娠を知った夜、妻・麗子の写真の前に座った。麗子は死ぬ前、坂口家に流れたオルマの血の断片を告白した。彼女は

「守って」

とは言わなかった。

「利用しないで」

と言った。正武はその言葉を守ろうとして、監視と管理の網を作った。守ることと利用することの境界は、いつから曖昧になったのか。茜の子の報告を前にして、彼は初めて、自分が境界の向こう側に立っているのではないかと恐れた。

 

夜、慎一は海辺の宿で眠る茜の背中を見ていた。彼女の身体はまだ以前と同じに見える。なめらかな肩、呼吸に合わせて微かに上下する胸、布団の下で丸くなる膝。だがそこに、もう一人の時間が流れている。慎一はそっと腹に手を置いた。茜は眠ったまま、その手を自分の手で覆った。任務でも、欲望でも、血の命令でもない。二人がその手の重なりを選んだという事実だけが、暗い部屋の中で小さく光っていた。

慎一は父親になる準備ができていなかった。そもそも、自分が人間として扱われていない場所で、誰かの親になる想像などできるはずがない。だが茜が眠っている間、彼は生まれてくる子のために名前を考えている自分に気づいた。考えては打ち消す。名前をつければ、未来を信じてしまう。未来を信じれば、失うことが怖くなる。慎一はその弱さを恥じたが、茜は言った。

「怖いと思えるなら、まだ大丈夫」

彼女のその言葉が、彼の父親としての最初の支えになった。

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