反物質Ⅱ 第1章 ソウルの胎動

2018年8月25日、崔明珠は分娩台ではなく手術室にいた。

ソウルの夏は、まだ終わっていなかった。病院の高い窓の外では、午後の光が白く膨らみ、街路樹の葉を乾いた緑に見せていた。けれど手術室の中には季節がなかった。空調の冷たい音、金属製の器具が触れ合う小さな響き、消毒液の匂い。すべてが、彼女の身体から夏を切り離していた。

予定日より早い出産だった。胎児の心拍が不安定になり、母体にも負担が出始めている。自然分娩を待つより、帝王切開に切り替えるべきだと医師は説明した。明珠は頷いた。工作員として訓練された身体は、恐怖を顔に出さないことを覚えていた。だが手術台の上に横たわり、薄い手術衣の下で腹部を晒された瞬間、彼女は自分があまりにも一人であることを知った。

看護師が横向きになるよう促した。明珠は膝を抱えるように身体を丸めた。背中をできるだけ突き出してください、と麻酔科医が言った。声は穏やかだったが、その穏やかさがかえって現実を際立たせた。腰のあたりを冷たい消毒液が撫でる。皮膚の表面が一瞬で他人のものになった。

細い針が入る感覚があった。痛みというほどではない。けれど、身体の中心へ他人の意志が差し込まれるような感覚だった。明珠は唇を噛んだ。麻酔薬が入ります、少し熱く感じるかもしれません。麻酔科医の声のあと、腰から足先へ、奇妙な温かさと重さが広がった。自分の脚がそこにあるのに、もう自分の命令を聞かない。

仰向けに戻されると、胸の下に青いドレープが張られた。自分の腹が見えなくなる。見えない場所で、自分の身体が開かれる。明珠はその布の向こうから聞こえる医師たちの短い会話を、意味ではなく音として聞いた。血圧。酸素。心拍。器具の名。切開の確認。

腹部に痛みはなかった。ただ、押される感覚だけがあった。強く引かれ、揺すられ、身体の奥から何かを探られる。麻酔は痛みを消しても、存在を消してはくれない。明珠は、自分の身体が今、母になるための場所として扱われていることに耐えながら、なぜか安比高原の夜を思い出していた。

あの夜も、窓の外は白かった。雪が音を吸っていた。深山慎一は、疲れた目をしていた。警戒していた。自分を拒もうとしていた。それなのに、最後には彼女の体温に沈んだ。明珠はその時、任務として彼に抱かれたつもりだった。白神、田代、神籠。彼の中に隠された名前を探るために。けれど慎一は、最後の扉だけは開けなかった。身体は彼女の中に入ってきたのに、秘密は彼女の手に落ちなかった。明珠はそれを屈辱として記憶していた。だが今、手術台の上で腹を開かれながら思い出す慎一は、任務の対象ではなかった。雪の夜に、自分を女として見た男だった。

医師の声が近づいた。

『もうすぐです』

腹の奥が大きく揺すられた。胸が圧迫され、息が浅くなる。明珠はドレープの縁を見つめた。薄い布の向こうで、自分の人生から何かが取り出されようとしている。

次の瞬間、医師が短く言った。

『男の子です』

だが、泣き声はなかった。

空気が一瞬だけ硬くなった。医師たちの声が速くなる。看護師が小さな身体を受け取り、処置台へ運ぶ。明珠は身体を起こせなかった。腹から下は自分のものではなく、腕には点滴がつながれている。彼女にできるのは、青い布の向こうへ目を向けることだけだった。

泣いて。お願いだから、泣いて。

心の中でそう繰り返した。任務の時でさえ、こんな祈り方をしたことはなかった。誰かを欺くための言葉も、相手の懐へ入るための沈黙も、今は何の役にも立たない。手術室の明るすぎる照明の下で、明珠はただ母になりかけた女として、子の声を待った。

赤子は泣かなかった。

すぐにNICU(新生児集中治療室)へ運ばれた。医師は、呼吸が弱いこと、予定より早い出生であること、しばらく厳重に管理する必要があることを説明した。説明は正確だった。正確すぎて、明珠には何も入ってこなかった。

術後の回復室で、彼女は腹の傷よりも、空になった腹部の軽さに怯えた。そこにいたはずのものが、もう自分の内側にはいない。だが、腕の中にもいない。母になったはずなのに、抱くことを許されない。その中途半端な空白が、麻酔の切れ始めた痛みよりも深く彼女を裂いた。

翌日から、明珠は車椅子で新生児集中治療室へ通った。透明な保育器の中で、男の子は細い管につながれ、小さな胸を必死に上下させていた。皮膚は薄く、手足は信じられないほど細い。だが生きていた。泣かなかった子は、機械音の中で生き延びようとしていた。

 

医師は慎重だった。早産児としての経過観察。呼吸状態。体重の増減。感染の有無。どれも当然の診察だった。けれど数日後から、神経科の若い医師だけが、診察のたびにわずかに表情を変えるようになった。

小さなライトを左右に動かす。指先で音を鳴らす。足裏へ軽く触れる。男の子は眠っているように見えても、反応が早かった。早すぎた。光を追う目の奥、音に先回りするような瞼の震え、触れる前から身をすくめるような反射。

医師は断言しなかった。

『発達の異常、というより、反応の鋭さが通常より目立ちます』

明珠はその曖昧な言葉を聞き逃さなかった。専門家が断言を避ける時、そこには未知か、恐怖か、あるいは誰かに報告したくなる誘惑がある。

彼女は保育器の中の子を見た。

慎一の血。

声には出さなかった。だが、その言葉は彼女の中で初めて形を持った。あの男の血は、単なる血統ではない。白神の地下で慎一が何かと結びついていたことは、任務の断片から知っていた。さらにその奥へつながる何かがあるらしいことも、資料の欠落から推測していた。けれど今、その線が自分の子の神経へまで伸びているのだと直感した。

 

出生に関わる手続きでは、父親欄の確認が何度かあった。明珠は準備していた名を出した。

玉川将司。日本人。投資関係の仕事をしている。短い滞在中に知り合い、一晩だけ関係を持った。現在は連絡が取れない。

玉川将司という男は、完全な架空ではなかった。かつて香港の会合で一度だけ同席した、日本の資産家の息子である。女と酒と投機の匂いをまとった、記憶に残す価値のない男。だから使いやすかった。誰も、深山慎一の名へたどり着いてはならない。慎一本人にも、韓国側にも、朴瑞妍にも。

男の子には、崔志遠(チェ・ジウォン)という名を与えた。遠くへ志す者。表向きにはそう説明した。だが本当は、遠くへ逃がすための名だった。慎一からも、組織からも、白神からも、男鹿の湖底からも。

9月に入ると、ソウルの光は少しずつ低くなった。昼の街はまだ暑く、アスファルトは熱を抱えていたが、夕方の風には乾いた紙の匂いが混じり始めた。病院の窓から見える街路樹は濃い緑のままなのに、影だけが長く伸びていく。夏が、ゆっくり秋へ引き渡されていた。

明珠は毎日、搾乳した小さな瓶を持って新生児集中治療室へ向かった。半年と少し前にベッドの中で慎一に揉み拉かれ吸われある意味理性を破壊され快感に屈服させられた乳房が今は子の命をつなぐ母乳の製造装置になっている。女性の体は不思議な機械だと明珠はつくづく思った。廊下には消毒液の匂いがあり、窓の外には救急車の音があり、待合のテレビでは何事もないようにニュースが流れていた。世界は、保育器の中の子が生きるか死ぬかとは無関係に動いていた。

志遠は少しずつ大きくなった。泣かなかった子は、やがて怒ったように小さな声を出すようになった。透明な管が一本ずつ外れ、保育器の中で手足を動かす時間が増えた。医師は慎重に、しかし明るい声で退院の見通しを告げた。

退院の日、ソウルの空は夏と秋の境目にあった。病院の自動扉が開くと、湿った熱気の奥から、乾いた風が一筋だけ入ってきた。明珠は帝王切開の傷をかばいながら、腕の中の志遠を抱き直した。軽かった。軽すぎるほどだった。だが、その軽さには確かな重みがあった。

タクシーの窓から、ソウルの街が流れていく。店先にはまだ冷たい飲み物の広告が残り、歩道には早すぎる銀杏の匂いが混じっていた。夕方の光がビルのガラスに反射し、志遠の閉じた瞼を一瞬だけ照らす。

その瞼の下で、何かが微かに動いた。

明珠は子を抱く腕に力を込めた。

この子は誰にも渡さない。

そう決めた時、彼女は初めて、自分が任務ではなく母として嘘をついたのだと理解した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました