退院から三週間が過ぎると、ソウルの空は急に高くなった。朝の空気は乾き、歩道の端には銀杏の匂いが混じり始めていた。崔明珠は抱っこ紐の中の志遠を片手で支えながら、病院へ向かう道をゆっくり歩いた。帝王切開の傷はまだ時々うずいたが、タクシーばかり使うわけにはいかなかった。街を歩けば、誰が自分を見ているか分かる。
彼女は母になっても、監視される側の身体を捨てていなかった。
交差点のガラス窓。地下鉄入口の黒い壁面。停車中の車のサイドミラー。視線は正面から来るとは限らない。志遠の小さな帽子を直すふりをして、明珠は背後を確認した。黒いジャケットの男が一人、同じ距離を保って歩いている。偶然かもしれない。だが偶然が二度続けば影が差し、三度続けば見過ごせない形を持つ。
病院の診察では、志遠の体重が少し増えていた。医師は安堵したように笑った。呼吸も安定している。授乳量も悪くない。早産児としてはよく持ち直している。
神経科の若い医師だけが、最後まで明るい声にならなかった。
小さな鈴を鳴らす。ライトを動かす。足裏へ軽く触れる。志遠は、音が届くよりほんのわずか早く瞼を震わせたように見えた。医師の指が一瞬止まる。
『何か問題がありますか』
明珠は先に聞いた。
医師はカルテへ視線を落とした。
『問題と呼べる段階ではありません。ただ、反応が非常に鋭い。早産児には珍しい反射の出方です』
『鋭いというのは、良いことですか』
『良いとも悪いとも言えません。経過を見ましょう』
経過を見ましょう。医師が逃げる時の言葉だった。明珠は笑顔を作り、診察室を出た。廊下のベンチに座ると、志遠は眠っていた。薄い瞼の下で、目だけが細かく動いている。夢を見ているのか。それとも、この子は夢よりも古い何かを聞いているのか。
明珠はその考えをすぐに消した。言葉にすれば、現実になる。
最初の連絡は、十月の初めに来た。朴瑞妍からだった。
『退院したそうね』
画面に表示された短い文を、明珠はしばらく見つめた。祝福ではない。確認だった。
『ええ。まだ通院は続いています』
返信すると、すぐに次の文が来た。
『父親の件、聞いたわ』
明珠は指を止めた。部屋の中では、哺乳瓶の消毒器が低い音を立てている。志遠はベビーベッドで眠っていた。窓の外では、隣のビルの室外機が震えている。世界は普通の音で満ちていた。だからこそ、その一文だけが刃物のように浮いた。
『手続き上、必要だっただけ』
『玉川将司。日本の投資家。便利な名前ね』
明珠は返信しなかった。瑞妍は続けた。
『あなたが一晩だけで子を宿すほど不用心な女だとは思わなかった』
明珠はスマートフォンを伏せた。怒りより先に、冷えが来た。瑞妍は疑っている。まだ深山慎一の名には届いていない。だが、玉川将司という偽名が薄いことを見抜いている。
組織からの接触も変わった。復帰時期の確認。健康状態の報告。子の出生に関わる追加書類。体調を気遣う文面の中に、どこか事務的な圧力が混じる。明珠は必要最小限だけを答えた。多くを説明すれば、説明そのものが矛盾を生む。
11月になると、瑞妍は直接現れた。
カフェの窓際。冷え始めた街路樹を見下ろす2階席で、朴瑞妍は薄いベージュのコートを膝に置いて座っていた。以前と同じように控えめで、同じように油断ならなかった。
『赤ちゃんは』
『預けている』
『母親になっても、嘘が上手ね』
瑞妍は砂糖を入れないコーヒーを一口飲んだ。
『安比で、あなたは何を持ち帰ったの』
『何も』
『深山慎一は何も話さなかった。報告書にはそう書いてあった』
『事実よ』
『でも、あなたは変わった』
明珠は黙った。窓の外で、バスが停まり、人々が降りていく。普通の街。普通の午後。その中で、自分たちだけが別の温度で会話している。
『子どもの父親は、本当に玉川将司なの』
『そう書類に書いた』
『私は書類の話をしていない』
瑞妍の声は低かった。
『あなたは昔から、嘘をつく時に少しだけ優しくなる。自分の嘘で相手を傷つけることを、先に許している顔になる』
明珠は初めて瑞妍を見た。
『私を観察していたの?』
『同じ仕事をしているのよ』
瑞妍は微笑んだ。
『それに、あなたは失敗した女にしては、何かを守っている顔をしている』
その日から、明珠の周囲は狭くなった。通院先で、前回とは違う事務員が書類を確認する。アパートの郵便受けに、差出人のない封筒が入る。中には志遠の出生記録の写しが一枚だけ入っていた。父親欄に書かれた玉川将司の名が、赤いペンで丸く囲まれている。
明珠はその紙を細かく破り、流し台で水に濡らした。紙はすぐには溶けなかった。赤い丸だけが、濡れて滲みながらもしつこく残った。
志遠は夜になると、時々理由もなく目を開けた。泣きはしない。ただ、暗い天井を見つめる。明珠が抱き上げると、小さな身体は驚くほど熱かった。熱があるわけではない。身体の芯だけが、何かに反応しているようだった。
『何を聞いているの』
明珠は小さく言った。
もちろん、赤子は答えない。
ただ、窓の外で遠くのサイレンが鳴るより少し前に、志遠の瞼が震えた。
12月、ソウルに初雪が降った。雪は積もるほどではなく、夕方には濡れた歩道の上で汚れた水になった。明珠は志遠を抱き、厚いコートの前を合わせて病院へ向かった。冬の空気は、腹の傷に冷たかった。
診察後、神経科の医師が言った。
『追加の検査を勧めたいと思います』
『なぜ』
『この子の反応は、単なる早産児の過敏さでは説明しきれません。脳波と感覚反射を、もう少し詳しく見たい』
『記録はどこに残りますか』
医師は一瞬だけ目を上げた。母親が最初に聞く質問としては、不自然だったのだろう。
『病院の記録です。必要があれば、専門機関にも』
『必要ありません』
明珠は即座に答えた。
医師は眉をひそめた。
『お母さん、これはお子さんのためです』
『この子のために、必要ありません』
声が冷えた。自分でも分かった。医師はそれ以上強く言わなかったが、カルテの画面を閉じる手がわずかに遅れた。その遅れを、明珠は見逃さなかった。
帰り道、雪は雨に変わっていた。タクシーの窓を水滴が流れ、街の灯が赤と白に伸びる。志遠は眠っている。明珠はその寝顔を見ながら、初めて韓国を出ることを具体的に考えた。
組織から逃げる。瑞妍から逃げる。病院の記録から逃げる。だが、どこへ。
日本へ戻ることはできない。慎一の近くへ行けば、すべてが露見する。彼の隣には茜がいる。彼らの子も、もう生まれているかもしれない。自分が志遠を連れて現れれば、慎一の人生を壊す。壊したいと思う自分はまだいる。だが、その欲望で志遠を危険に晒すことはできない。
数日後、瑞妍は再び電話をかけてきた。
『専門機関の検査を断ったそうね』
明珠は答えなかった。
『病院の中にも、口の軽い人はいるわ』
『何が目的』
『あなたが何を隠しているのか知りたいだけ』
『子どもを巻き込まないで』
『巻き込んだのはあなたでしょう』
その言葉に、明珠は息を止めた。瑞妍は優しく続けた。
『父親の名を正直に言えば、守れるものもあるかもしれない』
『あなたに守れるものなんてない』
『いいえ。奪えるものならある』
通話は切れた。
明珠はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。部屋の灯りは落としている。志遠はベビーベッドの中で眠っている。小さな胸が上下する。そのたびに、透明な管につながれていた新生児集中治療室の日々が戻ってくる。あの子は泣かずに生まれた。それでも生き延びた。自分が守らなければ、誰が守るのか。
翌朝、明珠は古い連絡先を一つ開いた。アメリカ側のものだった。直接の亡命窓口ではない。情報提供者を受け入れるための、何重にも折り畳まれた連絡線。かつて任務の中で存在だけを知ったもの。
送信文は短かった。
『白神に関する未公開情報を持っている。保護を求める』
送信した後、明珠はすぐに端末を初期化した。
ソウルの冬は、窓の隙間から静かに入ってくる。明珠は眠る志遠の頬に指を触れた。指先に、赤子らしい柔らかさと、説明できない鋭い反応が同時に返ってくる。
『遠くへ行こう』
彼女は初めて、声に出して言った。
志遠は眠ったまま、小さく手を握った。その仕草が返事に見えたことを、明珠は誰にも話さなかった。



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