夏が来ると、大館の空は急に高くなる。田代の田んぼは青く厚くなり、風が通るたび、稲の列が遠くの海のように揺れた。男鹿の補助観測点で起きたことは、新聞には小さくしか載らなかった。旧施設への不正侵入、設備故障、関係者の任意聴取。神籠も、外殻片も、湖底の宇宙船も、そこには書かれていない。
書かれなかった事実は、消えたわけではない。人の胸の奥に場所を変えただけだ。
三村家の朝は、以前と似ていた。明莉は台所に立ち、三村は朝のどうでも良いニュースをTVの音だけで聞き、蓮は寝癖を直しきれないまま制服の襟を直す。ただ、食卓の沈黙は変わっていた。隠すための沈黙ではなく、言葉が形になるまで待つ沈黙だった。
『今日、蒼真が来る』
蓮が言った。
雄太は新聞を畳んだ。
『道場か』
『うん。剣道はしない。座るだけ』
明莉は卵焼きを皿へ移しながら、少し笑った。座るだけ。その頼りない約束が、今の二人にはちょうどよかった。兄弟という言葉で急に近づくには、背負ったものが多すぎる。だから、同じ場所に座ることから始める。
宗像幸司は、秋田へ来る前に東京の職を一つ手放していた。すべてを捨てたわけではない。彼は自分のような男が完全に表から消えれば、別の誰かが同じ空白をもっと悪く使うことを知っていた。だが黒いアタッシェケースは、彼の手元から取り上げられた。破壊されたのではない。封印され、厳重な監視下に置かれた。
宗像は佐藤の遺品を持って、大館へ来た。秋田大学の地質学者として佐藤が残した野帳の写し、ロシア極東で撮った岩片の写真、最後の音声の文字起こし。封筒は厚くない。人が命をかけて近づいた真実は、紙にすれば驚くほど薄い。
蓮は道場でそれを受け取った。宗像は正座しなかった。膝を折れば謝罪の形になる。だが謝罪は、受け取る者が準備できていない時には、ただの重荷になる。
『これは君のものです』
宗像が言った。
『佐藤さんは、僕のために死んだんですか』
『君だけのためではありません。だが、君が利用される道を少しでも塞ごうとしていた』
蓮は封筒を胸に抱えなかった。膝の上に置き、しばらく見ていた。
『僕はまだ、その人のことを知りません』
『知らないまま、覚えていてください。知る準備ができた時に、名前が残っているように』
三村は道場の隅で聞いていた。宗像を許したわけではない。これからも簡単には許せないだろう。だが、蓮が自分の手で過去を受け取る場面を、父親の怒りで奪うことはしなかった。
蒼真は昼前に来た。慎一も一緒だった。慎一は道場へ入る前、深く一礼した。そこに蓮が生きてきた時間があることを、ようやく理解した者の礼だった。
蒼真は蓮の横へ座った。
『暑いな』
『男鹿よりは』
『比べる場所がおかしい』
短い会話だったが、二人は笑った。笑うと、少し似ていた。目元ではなく、笑った後にすぐ真面目な顔へ戻るところが似ていた。
慎一はその様子を見て、胸の奥が痛むのを感じた。父であることを取り戻したい、という欲望がないわけではない。だが蓮の人生は、慎一の後悔を埋めるためにあるのではない。彼は三村へ向き直った。
『これからも、蓮君の生活を乱さない距離を守ります』
三村はしばらく答えなかった。
『距離は、蓮が決めると思う』
慎一は頷いた。その一言は厳しかったが、公平だった。
明莉は道場の外で、レベッカと再会した。これから成田へ向かうという。白いシャツに薄い上着。任務に失敗した人間の顔ではなく、報告書に書かないものを一つ持ち帰る人間の顔だった。
『蓮を連れて行かなかったのね』
明莉が言った。
『連れて行けなかった、と報告する』
『本当は』
『連れて行かなかった』
二人はそれ以上言わなかった。明莉は感謝しない。レベッカも謝らない。二人の間にあるものは、そのどちらか一つでは片づかない。利用し、救い、傷つけ、見逃した。女たちは、自分たちの過去に名前をつけずに立っていた。
『あなたは母親になった』
レベッカがまた言った。
『あなたも、命令以外の言葉を覚えた』
レベッカは小さく笑った。
『それは困るわね』
彼女は背を向けた。明莉は呼び止めなかった。敵であっても、去り方まで奪う必要はない。
オクサーナの消息ははっきりしなかった。ロシアへ戻ったという者もいれば、北欧経由で別名になったという者もいた。彼女が持ち去ったものはなかった。だが、持ち去らなかったという事実が、かえって彼女を追う者たちの間で奇妙な噂になった。奪うために生きてきた女が、一度だけ奪わなかった。その一度が、人の内側を変えることもある。
林麗華は消えた。会社は畳まれ、財団は名を変え、彼女の口座は空になっていた。だが三村は、彼女が完全に敗れたとは思っていない。金の流れは水に似ている。塞いでも、いつか別の低い場所へ流れる。だから見張り続けるしかない。
夏祭りの日、蓮と蒼真は町を歩いた。明莉と雄太、慎一は少し離れて後ろを歩いた。親たちの距離もまた、まだ定まっていない。近づきすぎれば過去がぶつかり、離れすぎれば子どもたちだけが間に残される。
屋台の灯りが点くころ、蓮は立ち止まった。
『志遠って名前、嫌いじゃない』
明莉の足が止まった。
蓮は続けた。
『でも、今の僕は蓮でいたい。志遠は、根っこみたいなものだと思う。見えないけど、なくなると立てない』
明莉は頷いた。泣かなかった。泣けば、息子の言葉を自分の救いにしてしまう気がしたからだ。ただ、静かに息を吸い、吐いた。
三村は蓮の横に並んだ。
『根っこがあるなら、枝も伸びる』
『変な例え』
『悪かったな』
蒼真が笑った。
『白神なら、根っこはしぶといぞ』
蓮も笑った。慎一はその笑いを聞き、初めて、取り戻すことではなく、見守ることの痛みを受け入れようと思った。
夜、祭りの帰りに、蓮は道場へ寄った。灯りをつけず、薄暗い板の上に立つ。竹刀を抜き、構えた。試合のためではない。神籠を眠らせるためでもない。今日の自分が、どこに立っているか確かめるためだった。
一振り。足音が板に吸われる。
二振り。空気を切る音が聞こえる。
三振り。呼吸が整う。
外では、明莉が戸口に立ち、雄太がその隣にいた。少し離れて、慎一と蒼真も見ている。四人の大人と少年が、同じ沈黙を共有していた。
湖底の船は眠っている。外殻片も、神籠も、完全に消えたわけではない。世界はいつかまた、それらを起こそうとするだろう。けれど今夜だけは、夏の匂いと板の音が、少年を普通の場所へ戻していた。
蓮は最後の一本を振り下ろし、深く息を吐いた。


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