反物質Ⅱ 第7章 牙の値段

林麗華は、夜景の見えるホテルを好んだ。東京でも、香港でも、シンガポールでも同じだった。地上の人間が点に見える高さに身を置くと、国家も企業も、男たちの野心も、少しだけ正しい大きさに見える。

2025年の初夏、宗像幸司は赤坂の高層ホテルの一室で彼女と向かい合っていた。公務ではない。会合でもない。記録に残らない夕食のあと、二人は同じエレベーターに乗り、同じ部屋へ入った。

麗華は黒いドレスを着ていた。妹の林月華と同じ顔をしている。だが、月華が男の隙間へ滑り込む刃なら、麗華は男が自分から差し出す首筋を待つ毒だった。

『妹は、日本の男を少し甘く見ていた』

麗華は窓辺で言った。

『三村雄太のことか』

『あの人は弱い。でも弱さの奥に、妙な誠実さがあった。月華には、それが面倒だったのよ』

宗像はグラスの水を飲んだ。酒は口を軽くする。今夜、自分が軽くしてよいのは、相手の警戒だけだった。

『あなたは雄太をどう使う』

『使うのは私ではない。あなたでしょう』

麗華は振り返った。

『私は、使える男の置き場所を教えるだけ』

宗像はその言い方を嫌った。だが正しい。三村雄太は、父の事故、慎一への劣等感、白神での贖罪を抱えている。もう一度、意味のある仕事を与えれば動く。自分が国家のために働いているとは気づかないまま。

『外殻材を高く売れる理由を聞かせろ』

宗像は言った。

麗華は笑った。

『あなたは兵器としてしか見ないのね』

『兵器以外に価値があるのか』

『あるわ。むしろ兵器は一番安い使い方かもしれない』

彼女はテーブルに小さなメモリを置いた。中には、世界各地の非公式な入札情報が入っているという。実在する国家もあれば、国家の名を借りた財団もある。王族、軍需企業、宇宙資源会社、宗教団体、富豪の研究所。外殻材を欲しがる者は、想像以上に多かった。

『第一に、未知素材としての価値。熱を拒み、光を吸い、既知の結晶構造に従わない。ひとかけらでも、材料科学の王座を買える』

宗像は黙って聞いた。

『第二に、封じ込め技術としての価値。反物質そのものより、反物質を安定させる鍵になる可能性がある。小さく、安全に、持ち運べる。あなたの好きなアタッシェケースにもね』

『第三は』

『人間への反応』

麗華の声が少し低くなった。

『特定の血統、特定の神経系に反応する。兵器ではなく、選別装置として使えるかもしれない。支配者たちは、武器よりも選別を好むの』

宗像は初めて表情を変えた。

『そこまで知っているのか』

『あなたが思うより少しだけ』

麗華は近づいてきた。香水は弱い。代わりに、肌の温度が近い。

『でも私は、日本を滅ぼしたいわけではない。日本が強くなるなら、それも市場には良い。中国が震え、ロシアが焦り、アメリカが値を上げる。恐怖は、最高の商品よ』

『中国系の女が、中国を牽制する兵器に協力するのか』

『私は国籍を着替えるの。女がドレスを選ぶように』

麗華は宗像のネクタイに指をかけた。

『あなたは国益を語る。私は欲望を語る。でも、結局どちらも同じ場所へ行く。欲しいものを手に入れるためなら、人はきれいな言葉を作る』

宗像はその手を払わなかった。

この関係に愛はない。忠誠もない。互いの本心を信用しないからこそ、身体だけが交渉の余白になる。麗華はそれを知っていた。宗像もまた、自分がその余白へ踏み込んでいることを理解していた。

彼女の唇が触れた時、宗像は一瞬だけ、坂口正武の顔を思い出した。あの男なら、この女を危険だと言っただろう。国家は欲望と取引してはならない、と。

だが宗像は違う。国家とは、欲望を制度化したものだ。国益とは、個人の欲望を大きな言葉で包んだものだ。ならば、欲望を恐れる必要はない。使えばいい。

二人は言葉を失っていった。夜景が窓の向こうで滲み、グラスの氷が溶ける音だけが残った。麗華は宗像の野心を撫でるように、彼の理性を少しずつほどいていく。宗像は、彼女を抱くことで支配しているつもりになりながら、同時に自分の欲望を彼女に読ませていた。

それは恋ではない。取引でもない。国益と金銭欲が、互いの体温を借りて確認し合う儀式だった。

夜が深くなったあと、麗華はシーツを肩にかけたまま言った。

『外殻材は、完全な形でなくていい。粉末でも、薄片でも、反応を示すだけで値がつく』

宗像は天井を見ていた。

『兵器には量が要る』

『最初の兵器にはね。でも市場には、量より証拠が要る。存在するという証拠。人間に反応するという証拠。国家が隠していたという証拠』

『証拠を売る気か』

『恐怖を売るの』

麗華は微笑んだ。

『あなたは恐怖を持ち歩きたい。私は恐怖に値札をつけたい。ねえ、幸司。私たちは同志ではない。でも、同じ方向を向いている』

名前で呼ばれたことに、宗像はわずかに眉を動かした。彼女はそれも見逃さない。

『あなたは日本を守りたいのでしょう』

『そうだ』

『なら、日本に秘密の牙を持たせなさい。誰にも見せない。けれど、必要な時には世界の首筋に当てられる牙を』

 

アタッシェケース大の最終兵器。

宗像の中で、その輪郭がまた一つ明確になった。外殻材は容器ではない。鍵であり、蓋であり、神経でもある。反物質を閉じ込めるだけでは足りない。発動する者を選ばせる必要がある。深山慎一の血。深山茜の血。崔明珠の息子。まだ見えていない線が、そこへ伸びている。

『三村雄太をどう動かす』

麗華が聞いた。

『父親の名誉を使う。安全解析を使う。技術者としての罪悪感を使う』

『弱い男は、正義を与えるとよく働くわ』

『君の妹も、そう思っただろうな』

『月華は、男を見下しすぎた。私は違う』

麗華は立ち上がり、窓の前に立った。東京の灯りが彼女の輪郭を黒く縁取る。

『男は、国家を語る時が一番裸になる』

宗像は返事をしなかった。否定できなかったからだ。

翌朝、二人は別々にホテルを出た。記録には残らない。領収書もない。監視カメラの映像は、麗華の側で処理される。宗像の側もまた、会わなかったことにする準備ができていた。

だが、その夜から計画は変わった。外殻材は回収対象ではなく、商品でもなく、最終兵器の心臓として扱われることになる。林麗華はその心臓に値札をつけ、宗像幸司はそれを国家の胸に埋め込もうとした。

欲望と国益は、同じベッドで目を覚ました。

そして日本は、坂口正武が封じた扉へ、もう一度手をかけ始めた。

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