反物質Ⅱ 第13章 北へ消えた女

宗像幸司が佐藤涼に接触したのは、秋田の山に粉砂糖のような雪が残り始めた頃だった。

指定された場所は、秋田駅から少し離れた古いホテルのラウンジだった。観光客の姿はなく、壁際の照明だけが琥珀色に落ちていた。佐藤は先に来ていた。湖底で最初にあの宇宙船を見つけた男――それが、彼につきまとう肩書きだった。無論、その肩書は名刺に書ける類のものではない。

宗像は向かいの席に座ると、挨拶もそこそこに、茶封筒をテーブルの上へ置いた。中には、粗い衛星写真、ロシア語の新聞切り抜き、そして青黒い金属片の写真が数枚入っていた。

『沿海州で、似たものが見つかっている』

佐藤は写真に目を落とした。湖底から引き上げられた船体の一部と同じ、光を飲み込むような肌だった。表面に走る細い文様も、地球の金属加工ではあり得ないほど均一だった。

『ロシア極東か』

『そうだ。軍でも研究所でもなく、最初は民間の鉱山関係者が拾ったらしい。だが、すぐに内務省筋が回収した。情報はそこで止まっている』

宗像の声は低かった。低いだけでなく、何かを押し殺していた。

『君に行ってほしい』

佐藤は顔を上げた。

『なぜ私なんだ?』

『最初に見つけたのが君だからだ。あれを見た者の目は、二度と普通には戻らない。写真の傷、金属の色、周囲に残る妙な放射線の癖。研究者の報告書より、君の直感の方が早いことがある』

佐藤は笑わなかった。宗像の言葉が褒め言葉でないことはわかっていた。呪いの継承のようなものだった。

だが、佐藤の胸に浮かんだのは金属片ではなかった。オクサーナだった。湖底調査の周辺に現れ、佐藤の身体に消えない熱だけを残して、霧のように消えた女。白い肌、冷たい指先、笑う直前だけ瞳に走る翳り。その記憶は、宇宙船の青い光よりも深く佐藤を縛っていた。

『ロシアへ行けば、あの女の足取りもつかめるかもしれない』

宗像は、佐藤が口にしなかったことを読んだように言った。

『オクサーナのことも調べてある。彼女は、クラスノヤルスクの出身だと君に話したそうだな』

佐藤の指が、封筒の端を強く押した。

『本当かどうかはわからない』

『だから行くんだ』

 

問題は、ロシアが佐藤を自由に歩かせる国ではないことだった。少なくとも、宗像の情報網が想定するロシアはそうだった。外国人が研究名目で入国しても、内務省の名が入った査証と移動許可を持っていなければ、都市から都市へ勝手に移動することはできない。沿海州、シベリア、ウラル。地図の上では一本の鉄道でつながっていても、実際には無数の目がある。

宗像はその目を迂回するための書類を用意した。極東で開かれる地質資源シンポジウム、クラスノヤルスクの宇宙線観測に関する学術会議、エカテリンブルグの鉱物材料研究会。佐藤は招聘研究者、通訳付きの技術顧問、あるいは共同研究の視察員として、季節を変えながら何度か渡露した。

成田からハバロフスクへ。ハバロフスクからモスクワ経由でクラスノヤルスクへ。場合によってはシベリア鉄道を一部使い、眠れない夜を車窓の闇に預けた。線路の向こうに見える白樺林は、夏も秋も、どこか同じ沈黙を抱えていた。

最初に向かったのは、夏のクラスノヤルスクだった。エニセイ川の両岸に広がるシベリアの大都市は、冬の荒涼とした印象とは違い、短い夏の光を一気に吸い込んでいた。川面は鈍く光り、河岸の緑は濃く、夕方になっても空の明るさがなかなか消えなかった。帝政ロシアの面影を残す古い建物と、ソ連時代の巨大な建築が混じり合い、その間を学生や労働者が軽い服装で行き交っていた。

オクサーナは、この町で生まれたと言っていた。佐藤はその言葉だけを頼りに、大学の記録、地方新聞、旧ソ連時代の住民台帳の写しを探した。だが、彼女の名は霧のように逃げた。オクサーナという名は珍しくない。苗字がなければ、女の痕跡は夏の埃よりも早く風に消える。

それでもクラスノヤルスクには、別の収穫があった。

1908年、ツングースカの空で起きた大爆発。佐藤は図書館と研究所で、その資料を読みあさった。森林の倒壊方向、地表に大きなクレーターが残らなかったこと、空中で解放された莫大なエネルギー、そして一部の証言に残る奇妙な青白い光。隕石でも彗星でも説明しきれない空白が、資料の隙間に残っていた。

佐藤は、夜明け前のホテルでノートに書いた。

――反物質。

もし宇宙船の欠片が大気中で壊れ、微量の反物質が通常物質と接触していたなら、あの爆発は説明できる。クレーターがない理由も、空中でエネルギーが一気に解放された理由も、異様な光の証言も。佐藤の背中に冷たい汗が流れた。湖底の船は、2万年前の秋田だけの物語ではなかった。地球の各地に、同じ傷が落ちていたのだ。

 

昼の佐藤は、研究者だった。資料を読み、古い写真を複写し、鉱物標本の保管庫に入り、現地の教授と握手した。夜の佐藤は、まるで別の男だった。

クラスノヤルスクで、彼はナターシャという女を買った。オクサーナに似ている、というだけの理由だった。髪の色も、目の色も、声の高さも違った。似ていたのは、笑う前に少しだけ相手を測るような視線だけだった。小柄なナターシャは少しだけ腋臭の匂いがしたが、逆にそれが佐藤の性欲を刺激した。それでも佐藤は金を払い、短い夜の間だけ、消えた女の輪郭を別の肉体に重ねようとした。

翌朝、彼は自分を軽蔑した。だが、その夜になるとまた同じ衝動が戻った。オクサーナを探しているのか、オクサーナを失った自分の空洞を埋めているのか、佐藤にはもう区別がつかなかった。

 

エカテリンブルグは、秋の気配に包まれていた。ウラル山脈の東側にある大きな工業都市で、ヨーロッパとアジアの境界に近い。古い鉱山都市の顔と、軍需産業を支えた閉鎖的な街の記憶を併せ持ち、黄色く色づいた街路樹の下を、冷たい雨が濡らしていた。石造りの建物の背後に新しい商業ビルが立ち、夜にはネオンが濡れた路面に滲んだ。

そこではユリアという女を買った。ユリアは日本から来た研究者だと知ると、珍しそうに笑った。佐藤は、彼女の明るいブロンドの髪を見ながら、オクサーナならこんなふうには笑わないと思った。思った瞬間、自分がまたオクサーナを探していることに気づいた。

黒い体毛の日本人・アジア人はレーザーを使った脱毛ができるが、ブロンドの場合はレーザーではそれができない。代わりにワックスを使った脱毛をするのだが、ユリアはさぼっていたのか恥丘の周囲は細く細かい体毛が残っていて佐藤自身の周りをチクチクと刺激した。ユリアは口を使う技が得意らしく、追加料金を要求したもののしっかりと”仕事”をし、佐藤はユリアの口の中でも果てた。これといった若者の仕事のないロシアの地方都市での若い女の仕事はこれかと佐藤は理解した。

 

佐藤の調査は進んでいた。エカテリンブルグの研究会で得た古い軍用材料の論文には、通常の合金では説明できない微細構造の報告があった。発表者はそれを測定誤差として片づけたが、佐藤には違って見えた。湖底の船体に刻まれていた文様と、微細構造の周期が似ていた。偶然ではない。

佐藤は再び夏の極東へ戻った。沿海州で欠片が見つかったという情報の周辺を洗い、さらに北へ回ってコムソモリスク・ナ・アムーレに入った。アムール川沿いに造られたその町は、日本人のシベリア抑留地としても有名だがソ連時代の共産党の青年組織を大量に送り込んだ計画都市の匂いを濃く残していた。造船所、航空機工場、広い通り、直線的な集合住宅。湿った夏の熱気の中で、アムール川は重く、ゆっくりと流れ、街全体が軍事機密の蓋をかぶせられているように感じられた。

ここで佐藤はマリアという女を買った。マリアはオクサーナには似ていなかった。似ていないことに、むしろ佐藤は安心した。ただ、色白で大きく豊かな胸は佐藤にオクサーナの記憶を蘇らせた。そして、彼女が窓際で煙草に火をつけたとき、横顔の影が一瞬だけオクサーナに重なった。佐藤は目を閉じた。いい歳をして、逃げても、追っても、同じ女に戻ってしまう。

マリアはコンドームを付けることを要求した。妊娠が嫌なのではなくHIV感染を恐れていた。ロシア国内を自由に旅行するためにはビザとともに3か月以内に検査を行った血液検査のHIV陰性の証明書が必要なことは宗像から聞いていた。宗像は念のためその書類1枚を用意して佐藤に渡していて、佐藤はそれをマリアに見せてマリアの安心した軽い微笑みとともに2人の行為は始まった。マリアは後ろから挿入されることを好んだ。これは相手の顔を見ずに相手が果てるまで済ませられるためだ。ある意味プロフェッショナルなことだと佐藤は思った。後ろから両手でマリアの乳房を掴みながら繰り返し突く行為はオクサーナとの思い出を反芻する佐藤にはひと時の夢見心地の時間だった。

 

 

2032年5月、佐藤は何度目かの渡露の旅程最後ににハバロフスクへ戻った。アムール川とウスリー川の流れを抱く極東の拠点都市は、ロシアでありながら、どこか国境の気配を持っていた。春はまだ遠く、歩道の雪は黒く汚れ、川から吹く風には凍った水の匂いが残っていた。中国へ向かう商人、軍人、役人、研究者、そして何者でもない顔をした男たちが、ホテルのロビーを絶えず行き来していた。

佐藤はロビーの隅で、宗像に送る報告書の下書きを確認していた。沿海州の欠片、ツングースカの仮説、複数の都市で見つかった不自然な金属記録。それらを一本の線で結ぶには、まだ足りないものがあった。

その時、エレベーターの前に立つ女の後ろ姿が目に入った。

佐藤の呼吸が止まった。

髪は短くなっていた。以前のように肩へ流れる赤毛ではなく、首筋が見えるほど短く切られている。服装も地味だった。灰色のコート、黒い手袋、小さな鞄。だが、立ち方が同じだった。人の流れから半歩だけ離れ、壁と出口の両方を視界に入れるあの立ち方。

オクサーナだった。

佐藤は立ち上がった。椅子が床をこする音が、自分でも驚くほど大きく響いた。女がわずかにこちらを向いた。横顔が見えた。頬の線、鼻梁、目尻。間違いない。

『オクサーナ』

声は喉の奥でかすれた。もう一度、呼ぼうとした。

その前に、別の女がロビーに入ってきた。

林麗華だった。紫がかった濃いコートを着て、髪を短くまとめている。彼女は迷いのない足取りでオクサーナに近づき、耳元で短く何かを言った。佐藤には全く聞き取れなかった。オクサーナは一瞬だけ目を伏せ、何か答えた。林麗華の表情は変わらなかった。

二人は、そのまま並んでロビーの外へ出た。

佐藤は報告書を置いたまま追った。回転扉を抜けると、3月のハバロフスクは細かい雪を含んだ風に沈んでいた。通りの向こうで、二人の女が黒い車に向かって歩いている。

『待て、オクサーナ!』

女は振り返らなかった。林麗華だけが、少しだけ肩越しに佐藤を見た。その目に驚きはなかった。まるで、追ってくることも計算に入っていたかのようだった。

佐藤は車道に踏み出した。クラクションが鳴り、ヘッドライトが白く弾けた。次の瞬間、横の路地から出てきた男が、佐藤の肩にぶつかった。

『すまない』

男は低い声で言った。

その声と同時に、佐藤の脇腹に焼けるような痛みが走った。

何が起きたのか理解するまで、数秒かかった。男の手には細い刃があった。刃はすぐにコートの内側へ消えた。男は振り返らず、人混みに溶けた。

佐藤は膝をついた。雪が黒い舗道の上で溶けていた。遠ざかる車のドアが閉まる音が聞こえた。エンジン音。タイヤが濡れた路面を噛む音。

視界の端で、オクサーナが一度だけこちらを見たような気がした。短い髪の下の横顔は、哀れみでも怒りでもなかった。ただ、何かを終わらせる人間の顔だった。

佐藤は手を伸ばした。届くはずのない距離へ。

湖底の青い光。ツングースカの白い爆発。クラスノヤルスクのナターシャ。エカテリンブルグのユリア。コムソモリスク・ナ・アムーレのマリア。すべてが一つの渦になって、オクサーナの短い髪の奥へ吸い込まれていく。

彼女を探していたのか。

それとも、最初から彼女に導かれていたのか。

答えは出なかった。

佐藤の頬に、雪が落ちた。冷たいはずの雪は、もう何も感じなかった。

ホテルの入口で誰かが叫んだ。遠くで車の音が消えた。

佐藤が最後に見たのは、ロビーのガラスに残る自分の影だった。湖底の船を最初に見つけた男は、異国の夜の端で、誰にも真実を告げることなく倒れた。

そして、宗像に届くはずだった封筒だけが、ホテルのテーブルの上に残された。

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