2018年12月1日、男鹿には早い雪が降っていた。海から来る風は、家々の屋根に薄く積もった白をすぐに払い落とし、戸賀湾の水面を灰色にざわめかせていた。深山慎一は病院へ向かう車のハンドルを握りながら、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいていた。
助手席の深山茜は、痛みの間隔を数えるように、膝の上で指を折っていた。肩には白神で受けた傷の記憶が残っている。弾は命を奪わなかったが、彼女の身体はもう以前と同じではない。それでも腹の中の子は、何度も内側から彼女を蹴り、ここにいると知らせ続けていた。
『慎一』
茜が低い声で呼んだ。
『落ち着いて』
『落ち着いてる』
『嘘。右折の合図、さっきから出したまま』
慎一は慌ててウインカーを戻した。茜は痛みの合間に小さく笑った。その笑いが車内の空気を少しだけ人間のものに戻した。白神の制御室では、警報と青い光の中で彼女の血を見た。いま彼女は、血を流すためではなく、生むために痛みに耐えている。慎一はその違いを信じようとした。
病院の分娩室には、白神の地下とは違う白があった。非常灯の青ではなく、柔らかい照明。警報ではなく、助産師の落ち着いた声。金属と消毒液の匂いは似ていたが、ここにある器具は何かを終わらせるためではなく、始めるために並んでいた。
茜は分娩台の上で、慎一の手を強く握った。白神で撃たれた時よりも、彼女の指先には力があった。汗で濡れた前髪が額に張りつき、頬には血の色が戻ったり消えたりした。慎一は何もできない自分を、何度も嫌になった。解析も、認証も、封印も、ここでは役に立たない。
『痛い』
茜が短く言った。
『うん』
『うん、じゃない』
『ごめん』
『謝るところでもない』
助産師が笑いをこらえ、次の痛みに合わせて呼吸を促した。慎一はその声に従い、茜の背中を支えた。彼女の身体は、自分の意志を超える大きな波に押されていた。けれど茜はその波に飲まれているのではなかった。自分の足で、未来の方へ進んでいるように見えた。
慎一は、男鹿の家で茜の腹に手を置いた夜を思い出した。まだ名前を決める前、胎動だけが彼の手のひらを押した。あれは鍵反応ではなかった。ただの命の動きだった。その違いを、彼は何度も自分に言い聞かせてきた。
だが恐怖は消えない。自分の血は、外殻材に反応する。茜の血もまた、古い記憶を持っている。二つの血が一人の子の中で重なるとき、その子は何になるのか。人間か。鍵か。止める者か。誰かにまた、使われる者か。
茜は苦しい息の中で、慎一の手を握り直した。
『考えすぎないで』
慎一は驚いた。声に出していないはずだった。
『顔に出てる』
『ごめん』
『だから、謝るところじゃない』
痛みの波が再び来た。茜の声が低くなり、助産師の声が近づいた。慎一は彼女の肩を支えながら、白神で茜が自分の前へ飛び込んだ瞬間を思い出した。あの時の血は、赤かった。人間の赤だった。青い火を眠らせたのは、その赤を見たからだ。
やがて、部屋の空気が変わった。医師が短く指示を出し、助産師が茜の名を呼んだ。慎一は自分の心臓の音を聞いていた。白神の低周波でも、一ノ目潟の湖底から来る振動でもない。ただ、自分が父になることを恐れている男の心音だった。
『もう少しです』
医師が言った。
茜は歯を食いしばり、最後の力を込めた。時間が伸びた。慎一には一瞬にも、何年にも感じられた。
次の瞬間、小さな泣き声が部屋に響いた。
怒っているような声だった。世界へ連れてこられたことに抗議しているような、強い声。慎一はその声を聞いた瞬間、膝から力が抜けそうになった。白神で世界が終わらなかった時よりも、その泣き声の方が現実だった。
『男の子です』
助産師が言った。
茜は疲れきった顔で笑った。目尻に涙が滲んでいた。慎一は何か言おうとしたが、声にならなかった。赤子は赤かった。濡れた髪、小さく握られた手、しわだらけの顔。青い光など、どこにも見えなかった。あまりにも人間だった。
『慎一』
茜が呼んだ。
『名前』
慎一は頷いた。二人は何度も迷い、何度も消し、最後にその二文字へ戻ってきた。
『蒼真』
慎一が言うと、赤子はさらに強く泣いた。まるで、その名を受け取ることに文句を言っているようだった。茜は小さく笑った。
『いい声』
『怒ってるみたいだ』
『生きてるって、そういうことでしょう』
蒼真は、母の胸に抱かれた。茜の身体は疲れきっていたが、その腕だけは確かだった。
ヘルシンキの女、プラハの恋人、国家に抗った監視者、白神の女。そのすべての上に母という名が静かに重なった。どれか一つが本当なのではない。すべてが茜だった。
慎一は蒼真の顔を見た。自分に似ているのか、茜に似ているのか、まだ何も分からない。ただ、そこにいる。自分たちが守ろうとした未来が、泣きながら息をしている。その事実だけで十分だった。
病室へ移ったあと、外では雪がやんでいた。窓の向こうの街灯に、濡れた道路が鈍く光っている。遠くでなまはげの声を練習するような大人たちの声が聞こえた気がした。まだ大晦日ではない。けれど男鹿の冬には、いつも山から来る者の気配が混じっている。
茜は眠っていた。蒼真も、小さな寝息を立てている。慎一は二人を見ながら、封印とは一度きりの行為ではないのだと思った。白神で青い
火を眠らせた。だがこれからは、この家で、この子の名前を毎日呼び続けることで、別の扉を閉じていかなければならない。
夜更け、蒼真が小さく身じろぎした。慎一はそっと覗き込んだ。赤子の瞼の下で、光が揺れたように見えた。ほんの一瞬、青とも灰ともつかない淡い影。
慎一の胸が冷えた。
だが蒼真はすぐに口を開け、ただの赤子の顔で眠り続けた。
慎一は震える指で、その小さな手に触れた。蒼真は反射のように彼の指を握った。外殻材の応答ではない。鍵反応でもない。生まれたばかりの子が、近くにあるものを掴んだだけだった。
慎一はその握力に、しばらく動けなかった。
『おまえは鍵じゃない』
彼は誰にも聞こえない声で言った。
『深山蒼真だ』
窓の外で、雪雲の切れ間から冬の星が一つだけ見えた。湖底の青い火は眠っている。白神の記録は封じられている。けれど血は続いている。続いてしまった以上、逃げるのではなく、名を呼び続けるしかない。
慎一は茜と蒼真の眠る病室で、初めて父親として夜を明かした。



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