2021年9月、バージニアの空は低かった。雨ではない。だが、空気全体が湿った灰色を含み、建物のガラスに薄く張りついている。崔明珠は、息子の志遠を抱いたまま、窓のない小さな待合室で名前を呼ばれるのを待っていた。
韓国を出る時、彼女は自分が亡命者になるとは思っていなかった。正確には、亡命という言葉は使われなかった。書類上は、協力者保護、非公式聴取、滞在資格の調整。いくつもの言葉が重ねられ、責任の所在を曖昧にしていた。だが、明珠にとってそれは同じだった。もう韓国へは戻れない。戻れば、朴瑞妍と組織が志遠を奪う。
志遠は三歳になっていた。小さな手で明珠の上着を掴み、知らない国の匂いを警戒している。言葉はまだ少ない。だが、音への反応だけは相変わらず鋭かった。廊下の向こうで扉が開くより先に顔を上げる。壁の中を走る空調の振動に、夜中ふと目を覚ます。医師たちの言葉を借りれば、感覚過敏。明珠の言葉を借りれば、慎一の血だった。
扉が開いた。入ってきた女は、軍人のように背筋を伸ばしていた。髪は淡い色にまとめられ、目は感情を隠すことに慣れている。制服ではない。だが、制服を脱いでも階級が残る種類の女だった。
『崔明珠さん』
英語の発音に、韓国名の硬さが少し混じった。明珠は立ち上がった。志遠が彼女の首へしがみつく。
『レベッカ・ショウです』
女は名乗り、志遠を見た。情報機関の人間が対象を見る目ではなかった。少なくとも最初の一秒だけは、違っていた。
『その子が、志遠ね』
明珠は答えなかった。レベッカは無理に距離を詰めない。椅子を勧め、自分も向かいに座る。机の上には録音機も、分厚いファイルも置かれていなかった。あるのは紙コップの水だけだった。
『ここでは、あなたを尋問する前に確認したいことがある』
『何ですか』
『あなたと息子さんを、韓国へ戻すつもりはない。少なくとも、今すぐには』
明珠はその言葉を信じなかった。信じるには、彼女は長く仕事をしすぎていた。国家は人を守る時でさえ、守る理由を先に計算する。
『その代わり、私から何を聞きたいの』
レベッカは薄く笑った。
『白神。田代。神籠。そして深山慎一』
慎一の名が出た瞬間、志遠が小さく身じろぎした。明珠の腕の中で、何かを聞いたように顔を上げる。レベッカの目がわずかに動いた。見逃さなかった。やはりこの女は、息子の反応を見ている。
『その名前を、子どもの前で言わないで』
明珠の声は低かった。
『失礼したわ』
レベッカは素直に謝った。素直すぎて、明珠はかえって警戒した。
面談は三時間続いた。明珠はすべてを話したわけではない。安比高原で慎一に近づいたこと。彼から核心を聞き出せなかったこと。羽田空港で妊娠を知ったこと。父親欄に玉川将司の名を使ったこと。朴瑞妍が疑い始め、病院の記録に手を伸ばしたこと。話せる部分だけを、慎重に並べた。
レベッカは途中で一度も声を荒げなかった。質問は短く、正確だった。明珠が嘘をつくと、すぐ次の質問で逃げ道を塞ぐ。だが、志遠のことになると、わずかに間を置いた。
その間に、明珠は彼女の過去を聞かされた。レベッカが自分から話したのではない。部屋を出たあと、保護施設へ移動する車の中で、通訳役の若い職員が何気なく漏らした。
レベッカ・ショウは孤児だった。生まれた町も、両親の記録も曖昧で、幼いころからいくつもの里親の家を移った。誰かの食卓に座るたび、そこが自分の場所ではないと知った。軍に入ったのは、国を守るためではなく、初めて所属先を得るためだった。
その夜、明珠は与えられた宿泊施設のベッドで志遠を寝かしつけながら、レベッカの目を思い出した。あの女は志遠を情報源として見ている。同時に、どこにも属せなかった子どもとしても見ている。二つの視線が矛盾せず、同じ瞳の中にあった。
翌朝、レベッカは再び現れた。私服だった。グレーのコートに、低い靴。軍人にも、役人にも見えない。
『息子さんには新しい名前が必要になる』
『名前を変えれば、安全になるの』
『完全にはならない。でも、追跡を遅らせることはできる』
レベッカは書類を差し出した。そこには、明珠の新しい身分の候補が並んでいる。
白石明莉。
その名を見た瞬間、明珠は少しだけ息を止めた。明るい莉。明珠の明だけが残っている。完全に消されるのではない。だが、元の自分でもない。
『息子さんは、白石蓮』
『蓮』
明珠は声に出した。泥の中でも咲く花。生まれた時に泣かなかった子には、似合いすぎる名だった。
『あなたが望まなければ、この名前は使わない』
レベッカは言った。
明珠は書類から目を上げた。
『あなたは、なぜそこまでこの子を見るの』
レベッカはすぐには答えなかった。窓の外では、アメリカの郊外の道路を大型車が過ぎていく。遠い国の乾いた音だった。
『私は、子どもがどこにも帰れない顔をするのを知っているから』
その答えは、諜報員のものではなかった。明珠は初めて、目の前の女の中にある孤児を見た。
だが、次の瞬間にはレベッカは仕事の顔に戻っていた。
『あなたと息子さんを守る。その代わり、日本が何を隠したのか、最後まで協力してもらう』
『日本は同盟国でしょう』
『だから、私たちは表から動けない』
レベッカは静かに言った。
『同盟国の秘密ほど、厄介なものはない』
明珠は志遠の寝顔を見た。彼は新しい名をまだ知らない。白石蓮。三歳の小さな身体の中に、慎一の血と、白神の闇と、まだ名前のない湖底の記憶を抱えて眠っている。
明珠は書類に署名した。崔明珠は、少なくとも表向きには消える。白石明莉が生まれる。
署名の最後の線を引いた時、志遠が目を開けた。彼は部屋の隅を見た。そこには何もない。だが、彼の瞼の奥で、微かな青が揺れたように明珠には見えた。
レベッカも、それを見た。
二人の女は、何も言わなかった。
その沈黙の中で、アメリカは初めて、白神の続きに触れた。



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