2032年5月、大館市の総合体育館には、春の終わりの冷えがまだ床の底に残っていた。入口のドアが開くたび、白神の方から下りてきた風が、竹刀袋の紐を小さく揺らした。県北地区の少年剣道大会。大館、鹿角、北秋田、能代、山本郡の道場が集まり、保護者の控えめな拍手と、素足で板張りを踏む音と、革鍔のかすかな匂いが、広い体育館の空気に薄く重なっていた。
岩神館大館道場の列の端で、三村蓮は黙って正座していた。十四歳になる前の身体はまだ細く、肩も手首も成長の途中にある。けれど竹刀を膝に置く手だけは、幼さと不釣り合いなほど静かだった。三村雄太はその手を見るたび、蓮が初めて道場の戸をくぐった日のことを思い出した。ソウルで生まれた崔志遠という赤ん坊を、彼は知らない。彼が知っているのは、大館の雪道を母に手を引かれて歩いてきた、白石蓮、三村蓮という名の小さな子どもだけだった。
三村明莉は観客席の上段に座っていた。母親として息子の試合を見る身体に、別の訓練で覚えた緊張がまだ残っている。蓮の姿を追う眼差しと、出入口を数える眼差しが、彼女の中で交互に現れた。大館のアメッコ市で三村に出会った日は、雪と飴の甘い匂いがしていた。あの出会い自体は偶然だった。だが、その偶然の背後で、レベッカ・ショウの命令が影のようについていたことを、明莉は一度も忘れたことがない。
試合は三本勝負だった。時間内に二本を先取すれば勝ち。両者が一本も取れずあるいは一本ずつで時間が尽きれば延長に入り、延長では先に一本を取った者が勝つ。団体戦で勝ち数と本数が並んだ時の代表戦も、同じように一本勝負になる。小学生の頃から何度も聞かされた決まりを、蓮は身体に入れていた。打突の竹刀の刃筋、姿勢、気勢そして残心。そのすべてがそろわなければ、旗は上がらない。
個人戦の初戦の相手は北秋田の道場の少年だった。蓮より少し背が高く、開始線に立った時から気勢が前へ出ている。互いに礼をし、三歩進んで蹲踞し、立ち上がる。面金の奥で相手の呼吸が少し浅くなった。蓮は相手の手元を見すぎないようにした。手元を追えば、考えが先に走る。相手の目だけを見るように三村に何度も言われてきたことだった。
竹刀の剣先が、互いの中心を探って小さく揺れた。蓮は右足だけで不用意に間を詰めず、左足の引きつけを遅らせないようにした。相手が面に来ると決めつけたのではない。手元がわずかに上がり、剣先の圧が一瞬だけ抜けた。その起こりに合わせて、蓮は籠手を打って出た。打って、抜け、振り返って中段に戻る。残心が整ったところで、審判の旗が三本上がった。
『籠手あり』
拍手が短く起こった。剣道の応援は、原則として拍手だけだ。道場の子どもたちが小さく名前を呼ぶことはあっても、試合場の空気を壊すほどの声援は慎まれる。会場に響くのは、竹刀の乾いた音、踏み込みの音、審判の声、そして勝負が決した時だけ広がる拍手だった。蓮は喜ぶ前に、相手へ礼を返すように中心を整えた。
次の一本は簡単ではなかった。相手は籠手を警戒し、剣先を上げも下げもせずに間を詰めてきた。蓮は下がりたくなった。下がれば見える。肩も、手元も、息の乱れも、すべて読める気がする。だが読みすぎる時ほど、身体は自分の中心から外れる。蓮は一歩だけ踏みとどまり、相手の竹刀を受け流すように体を開いた。胴を打ったあと、足を止めずに抜けた。旗が上がり、二本目で勝負が決まった。
試合コートを出ると、蓮は道場の列へ戻った。正座して竹刀を横へ置き、面を外す。汗で前髪が額に貼りついていたが、手順は乱れなかった。勝った時ほど、所作は雑になりやすい。三村が子どもたちに教えてきたのは、勝敗の前にそこだった。
『左足が遅れた』
三村はそれだけ言った。褒め言葉ではなかったが、叱責でもなかった。
『分かりました』
蓮は短く答えた。言葉より先に、さっきの踏み込みが足裏に残っている。素足で踏んだ床の冷たさ、打ったあとに抜けた時の空気、残心へ戻るまでの呼吸。その一つ一つが、彼の中でまだ揺れていた。
明莉はそのやり取りを見ていた。三村は蓮の異様な反応を、才能という言葉で飾らない。恐れという言葉で閉じ込めもしない。礼をし、構え、攻め、打ち、抜け、戻る。その順序の中へ、蓮の過敏な感覚を少しずつ沈めていく。剣道は勝つためだけの稽古ではなかった。見えすぎるもの、聞こえすぎるものに引きずられそうになる蓮を、礼法と呼吸と足さばきの決まり事へ戻すための稽古でもあった。
二回戦、三回戦、四回戦と蓮は勝ち進み準決勝の前、明莉は観客席の反対側に立つ男に気づいた。
その男は、試合場を見ていなかった。時折、蓮ではなく、明莉の方へ視線を送っている。
知らない男だった。けれど、知らないだけでは済まされない気配があった。人混みの中にいるのに、周囲と混ざらない。誰かを探しているのではなく、すでに見つけている者の立ち方だった。明莉は顔を動かさず、心だけを硬くした。偶然ではない。そう思った。宗像幸司のスーツは会場に似合わず、立ち方は保護者のものではない。試合を見る人間は、打突のたびにわずかに身体が動く。宗像は動かなかった。少年の勝敗ではなく、少年の反応を測っているようだった。
宗像から少し離れた柱の陰に、もう一人の女がいた。薄い灰色のスーツに、場違いなほど高級そうなバッグ。応援席のざわめきから半歩だけ外れ、宗像の横顔を観察している。明莉はその女の名をまだ知らなかった。だが、笑う前から値段をつける目を、彼女は見間違えなかった。林麗華。危険は、いつも銃や刃物の形で現れるわけではない。時には、商談の匂いをまとって体育館の隅に立つ。
準決勝の相手は能代の道場の選手だった。構えに無駄がなく、攻め急がない。蓮は一本目を失った。面に来ると読んでいたのに、身体が半歩遅れた。読めているのに遅れる。その事実は、蓮をひどく苛立たせた。だが、苛立ちを打ちに乗せれば、相手に中心を渡すことになる。蓮は面金の中で深く息を吸い、竹刀を握る指の力を抜いた。
二本目は籠手だった。三本目は延長に入ってからの面だった。勝ったあとも、蓮は拳を握らなかった。礼をし、下がり、試合場を出る。準決勝まで五つを勝ち抜いた身体は疲れているはずなのに、足裏だけは妙にはっきり床の目を感じていた。決勝は、この日六試合目になる。
明莉は拍手をしたが、指先は冷たかった。蓮が勝つたび、彼の中にある普通ではない反応が、人目に触れていくように思えた。親は子の成長を喜ぶものだと人は簡単に言う。だが明莉にとって蓮の成長とは、誰かに見つかる危険が増えることでもあった。
決勝の相手は北秋田の別の道場の少年だった。県北では名の知れた選手で、構えに無駄がない。三本勝負。互いに一本ずつを取り、時間が尽きた。延長は一本勝負になる。先に有効打突を取った者が勝ち。それだけのことが、会場の空気を急に重くした。
延長の開始線に立った時、蓮の足裏は床の冷たさをよく感じていた。礼をし、蹲踞し、立つ。相手の剣先は強い。蓮はそれを嫌がらず、中心を取り返そうと小さく前へ出た。その瞬間、体育館の天井の音が遠ざかった。拍手も、審判の足音も、換気扇の低い唸りも、水の膜の向こうへ沈んでいく。
耳の奥で、名を呼ぶ声がした。
志遠(ジウォン)。
人の声ではなかった。冷たい水底で金属がわずかに軋むような、細く、古い響きだった。蓮は相手の起こりを感じていた。間も分かった。打てる瞬間も分かった。だが、足が床から離れなかった。分かることと、動けることは違う。相手の面が決まり、審判の旗が上がった。延長の一本で、勝負は終わった。
蓮は礼を崩さなかった。試合コートを下がり、境界線の外へ出てから、初めて会場を見回した。宗像はいなかった。灰色のスーツの女も消えていた。残っているのは、拍手と、床に落ちた自分の息だけだった。
道場の列へ戻ると、蓮は正座して面を外した。汗を吸った面紐が指に絡み、ほどくのに少し時間がかかった。三村は待っていた。勝敗を聞くためではない。試合の途中で、蓮の身体に何が起きたのかを確かめるためだった。
『何があった』
問いは短かった。怒っているのではない。責めているのでもない。
『名前を呼ばれました』
『誰に』
『分かりません。ジウォンって』
試合が終わって傍に寄って来ていた明莉の呼吸が止まった。三村はその名を知らなかった。知らないからこそ、明莉の反応だけが異様に大きく見えた。蓮は困ったように笑おうとしたが、笑みにはならなかった。自分のものではないはずの名が、身体の内側から響いた。その気味の悪さを、少年はまだ言葉にできなかった。
明莉は蓮の濡れた髪に手を伸ばしかけ、途中で止めた。抱きしめれば、隠してきたものがこぼれる気がした。けれど離れていれば、誰かに奪われる気もした。母親であることは、時に、近づくことと遠ざけることの両方を同時に求められる。彼女はただ、蓮の肩に手を置いた。
『帰ろう』
その一言だけが、今の明莉に許された嘘のない言葉だった。
その夜、三村は田代の自宅で古いノートパソコンを開いた。大会の結果表ではない。届いていたのは、秋田大学の佐藤からの暗号化された短い連絡だった。佐藤は地質学者であり、三村が田代試験場で進めてきた地下構造と古い地質資料の照合について、何度も助言を求めてきた相手だった。
佐藤が極東ロシアへ渡ったのは、オクサーナ本人の論文や資料を追ったからではなかった。彼女の背後にいる組織が、海洋調査と鉱物調査を装って古い採取記録を買い集めている。その中に、外殻片と同じような比重と磁気異常を示す「岩片」の写真が紛れていた。佐藤はそれを、成分ではなく、採取地点と地層の矛盾から追った。学術交流の名目でウラジオストクに入り、港湾地区で動く調査会社の名前を確かめようとしていた。
文面は短かった。
オクサーナに連なる現地組織、港湾倉庫で確認。目的は反物質そのものではなく、神籠と外殻片。林麗華という中国人女性の資金線と接触の疑い。これ以上は危険。
三村は画面を閉じられなかった。体育館で蓮の足が止まった瞬間が、瞼の裏に残っている。少年の中で鳴った名は、ただの記憶ではない。湖底で眠る何かが、分散した欠片を通じて、こちらを見返した合図かもしれなかった。
同じ夜、男鹿半島の一ノ目潟に近い古い観測施設の一室で、深山慎一は波形の乱れを見ていた。かつて沿岸観測に使われていた建物は、今は表向き閉鎖されている。潮の匂いが壁に染み、窓の外では黒い海が月の光を細く砕いていた。端末の青白い線は、蓮が延長で足を止めた時刻に一度だけ跳ね、そのあと何事もなかったように平らになった。
隣の机では、深山蒼真が古い図面を写していた。若い顔には父と似た静けさがある。だが、その静けさは生まれつきのものではない。茜が死んだ夜から、慎一は息子に少しずつ話してきた。外殻片のそばで自分たちの身体に異常な反応が起きること。神籠という装置が存在すること。湖底に、起こしてはならない本体が眠っていること。すべてではない。母の死に触れる核心も、蓮という名も、血に関わる推測も、慎一はまだ蒼真に渡していなかった。子どもに背負わせれば壊れる部分は、父親の側に残していた。
『また、どこかで反応が出たの?』
蒼真が尋ねた。画面に蓮の名は出ていない。蒼真は大館の体育館で何が起きたのかも、三村蓮という少年が自分と似た反応を示す可能性があることも知らない。
『大館で一度だけ乱れた』
慎一は答えをそこまでにした。
『誰かが外殻片に触れた?』
『触れたとは限らない。呼ばれただけでも、反応は出る』
蒼真は黙った。知りたいことがある顔だった。だが、聞けば父を傷つける何かに触れると分かっている時、彼はいつもそこで言葉を止めた。
神籠は、外殻片だけでは動かない。欠片がどれほど精密に組まれても、湖底の本体が応じなければ、装置はただの器でしかない。そして、本体との細い連携を開くには、特定の生体反応が要る。慎一は自分と蒼真のことを知っている。さらに、三村から届いた短い報告によって、もう一つの反応が存在することを知ってしまった。だが、その名を蒼真に告げることはできなかった。
『俺は、何をすればいい』
『眠らせる側に立て。どんな名で呼ばれても、それだけは間違えるな』
小さな部屋の灯りは弱く、壁の古い配線を薄く照らしていた。海は静かだった。静かすぎるものほど、内側に大きな力を隠している。慎一は端末を閉じなかった。青い線が再び跳ねることを、彼は恐れていた。
一方、東京へ戻る車の中で、宗像幸司は窓に映る自分の顔を見ていた。体育館で蓮の足が止まった瞬間が、彼の中にも残っている。少年の恐怖を見たのではない。反応を見た。宗像が欲しているのは、反物質そのものを持ち歩くことではない。アタッシェケース大の最終兵器。眠りと目覚めの境界を制御し、日本を誰の核にも誰の同盟にも完全には縛られない国にする装置。彼はそれを国家のためだと信じようとしていた。
だが、別の者たちは別の名で同じものを求めている。オクサーナは神籠と、その材料である外殻片を欲しがる。林麗華は宗像が装置を完成させるのを待ち、海外へ売って利益に変えようとしている。レベッカ・ショウは反物質の製造法と制御法、神籠、外殻片をアメリカへ持ち帰ろうとしている。必要なら、蓮か慎一を連れ去ることも選ぶだろう。
大館の体育館、田代の家、ウラジオストクの港、男鹿の観測施設、湖底に眠る本体。それぞれ離れた場所にあるはずの点が、一本の細い線でつながり始めている。その線の上で、三村蓮はまだ、自分が聞いた名の重さを知らなかった。知らないまま、母に手を引かれ、夜の大館へ帰っていった。



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